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2016年1月27日 (水)

1月17日 「わずらいを負うキリスト」

 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(マタイ8:14~17)

 シモン・ペトロは、弟アンデレと同居していましたが、妻を迎え、またその母をひきとったようです。そのしゅうとめが熱病でねたきりになっていました。ところがペトロが自分から彼女のために主イエスに癒しを願った形跡はありません。ペトロの家族にはなにか冷たい感情がただよっていたのでしょうか。
 主イエスがしゅうとめを癒すと、彼女は主イエスをもてなしました。「もてなす」とは、「仕える」「奉仕する」という意味の単語です。彼女は、主に癒されて主に仕える者となりました。すでに招かれて主に従っていたペトロとアンデレ、さらに信者になった妻(コリント一 9:5)ともども、家族のきずなが主にあって新しく結ばれたのです。主のもたらす癒しは、体の病を治すだけでなく、人の生き方を新しくし、心の苦悩やわずらいまでも癒すものでした。
 このような主イエスの癒しについて、マタイ福音書はイザヤ書53章の句を引用して説明しています。イザヤ書53章は、実名不明の、ある人物について語っています。この人は人々の病や痛みを負ったのに、人々はそうとは思わずに、かえって彼を苦しめ死に追いやったというのです。
 十字架の後、弟子たちは、イザヤ書53章は主イエスについて示したものだと理解しました。主イエスの癒しは、ただ病を治すだけでなく、当時の社会生活の重荷やわずらいに苦しむ人々を解放するものでした。そのため、ときに安息日の掟を無視し、罪人にかかわり、汚れた者に触れ、罪のゆるしを宣言しました。そのために敵視され、憎まれ、殺されたのです。
 主に癒されて新たにされた私たちは主に仕えます。人々のためにわずらいを負って十字架にかけられた主キリストのものとなって、従うとき、わたしたちも苦しみや痛みを負うことになるかもしれません。しかし、そのことを通して、私たちも復活の命の喜びと栄光へと導かれることでしょう。

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