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2016年1月27日 (水)

1月3日「幸いを告げる」

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3~20)

 いわゆる「山上の説教」の冒頭に、「幸いだ」と告げる主イエスのことばが掲げられます。ここで幸いと言われるのはどういう人々でしょうか。
 「心の貧しい」とは、「心細い(山浦玄嗣訳)」という意味です。「生きていく自信がない」といっていいでしょう。「悲しむ」とは、愛する者を失ったとか、失敗して傷ついたといった個人の人生の悲しみだけでなく、この世のありかたを悲しむことも含まれます。昨年の世界各地のできごとに心痛め、悲しみを深めたことでしょう。「柔和」とは、優しく穏やかというだけではなく、苦しめられても耐え忍ぶという意味です。被災地にあって理不尽な状況に耐えている人々を思います。それはまた「義に飢え渇く」ということでもあるでしょう。
 そのような世にも「憐れみ深い人」、情け深い人はいます。それは「心の清い人」つまり神に対して誠実な人であるかもしれません。そうやって人を思い、神への信仰に基づいて仕えることは「平和を実現する」「平和をつくる」ことでもあります。けれども、そうした人々が正当に評価され、働きが報われるとはかぎりません。かえってそのために「迫害される」ことも多いのです。
 いったい、こうした人々はほんとうに「幸いだ」といえるのでしょうか。
 ここでは「天の国」ということばがくりかえされます(3節、10節)。これは、主イエスの宣教のキーワードで(4:17)、「神の支配」という意味です。神の支配、神のみこころが明らかにされ、みこころが実現するときは近づいた、と主は告げ知らせ、そしてその「神の支配」が実現するとき、悲しむ人は慰められ、義に飢え渇く人は満たされる、と告げたのです。
 天の国、神の支配は近いと信じ、その希望に支えられ導かれる生き方こそ「幸い」だと告げられています。わたしたちはまた、その「幸い」を、今この時代に告げるつとめをも担うのです。

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