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2016年3月26日 (土)

3月20日 「責任」

そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 (マタイ27:21~26)
 「責任」とは、簡単にいえば文字通り「責められる任務」といっていいでしょう。何かことが起こったときに責めを負って怒られたり謝ったりしなければなりません。しかし、責められるのは決してうれしいことではありません。直接自分でやったのでもないこと、自分としては不本意だったことの結果、自分が怒られるのはたまらないとも思うのです。
 総督ピラトもそんな心境だったのでしょうか。訴えられたイエスを取り調べたピラトは、イエスは無罪と判断しました。しかし、群集が騒ぎ立てると、暴動が起こって自分の立場が悪くなることを恐れ、群衆の要求をのんでしまいます。自分の身を守るために無実の人を殺すのはさすがに後味が悪かったのでしょう、手を洗って「わたしには責任がない」「わたしは無罪だ」と宣言したのです。しかしそれでも教会は「使徒信条」でポンテオ・ピラトの責任を覚え続けてきました。
 いっぽうでユダヤの群衆は、「わたしたちが責任を負う」と叫びます。いさぎよく責任を引き受ける態度でしょうか。しかし、かれらには本当に無実の人を殺し、神の子を十字架につけることの責任がわかっていたでしょうか。負えるはずもない重い責任を、「わたしたちが負う」と言うことじたい、罪の重さを知らない愚かさ、負えるはずのない責任を負えると言いはる傲慢さ、どうせ責任を問われることはないというずるさにほかなりません。
 自分は無罪だと責任を逃れるピラトと、できもしない責任を負うと言いはる人々の前で、自分のものではない責めを負って主は十字架に向かいます。今、わたしたちの前にも主の十字架が立っています。人に対し、神に対し、自分自身に対し、わたしの負うべき責めを、負えるはずもない責任を、かわって負ってくださる主のみわざを心に重く刻むのです。

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