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2016年3月13日 (日)

3月6日 「何の権威で」

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(マタイ21:23~27)

 先日まで公開されていた映画『杉原千畝』は、ナチスの迫害を逃れてきた多くのユダヤ人に日本行きのビザを発給して助けた外交官、杉原千畝の半生を描いたものです。この行為は、日本政府外務省の意図に逆らうものでしたが、信仰に基づく決断として人々の命を救ったのです。しかし、そのため杉原千畝は戦後、外務省を辞めさせられることになりました。
 何に従うべきか、私を支配する権威は何か、問われるときがあります。主イエスは、ユダヤの指導者たちに「何の権威で」と問われました。彼らにしてみれば、権威とは自分たちのことでした。「我々に逆らうのか、恐れないのか、従わないのか」と問い詰めたのです。権威・権力を持つ人々から問い詰められたら、私たちはどう答えるでしょう。
 45年前、「種谷牧師裁判」が争われました。高校紛争のリーダー二名が警察の追及を逃れて教会にかけこんできたとき、種谷俊一牧師は友人の牧師と協力して二人をかくまい、その間に労働を体験させるなどして教えさとしました。やがて二人が警察に出頭すると、種谷牧師は、犯人をかくまったとして罰金を言い渡されたのですが、それを不服として裁判を起こしました。裁判所は、憲法に定められた「信教の自由」に基づいて牧師の「牧会権」を認め、無罪が確定しました。信仰的良心に従い人の魂への配慮に基づいた行動は重んじられるべきだとされたのです。
人からではなく、天からの権威、神の権威に従う決断をせまられる場面があります。映画『杉原千畝』の冒頭、「ペルソナ・ノン・グラータ」と言うラテン語が示されます。「好ましからざる人物」という外交用語です。天からの権威に従うとき、地上の権力からは「好ましからざる人物」として退けられることがあります。キリストもそうやって十字架へと追いやられたのです。

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