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2016年9月

2016年9月26日 (月)

9月18日 「信仰と生活」

主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。
「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。 (エレミヤ7章2~7節)
 日曜日、教会の礼拝に、いやしと慰めを求めて来る人は少なくないでしょう。しかし、生活を支え保っていくために平安といやしを求めるような信仰のありかたが、厳しく問われるときがあります。 
 ユダ王国が滅亡にむかう不安な時代、人々は神殿での礼拝に平安と慰めを求めていました。神殿では祭司たちがおごそかな儀式をとり行い、「あなたがたは救われた」と祝福し、安心して生活にもどるよう励ましました。そうやって人々は生活を支え保つよりどころを与えられていたのです。
 ところが、そこに現れたエレミヤは、「主の神殿」というよりどころはむなしい気休めだ、「救われた」といっても、そうやって戻っていく生活そのものが変わらないなら無意味だ、と厳しいことばを告げたのです。
 信仰は、今の生活を保ち守っていくための手段でしょうか。私たちは、自分の思い描く生活が支えられるように礼拝をささげ神に祈るのでしょうか。それは、神を手段とすることではないでしょうか。
 信仰は、神を手段ではなく目的とすることです。神を目的とし中心とするとき、信仰が、私たちをほっとさせ生活を守り支えるものではなくなることがあります。信仰が、生活を問い、「道を正せ」と迫り、これまでの生活を崩し、変えていくことがあるのです。
 自分の生活を変えることなく、ただ自分を守り支えることだけを求める信仰は、むしろ神にそむくものだと語ったエレミヤは、人々の怒りを買い、殺されかけます(エレミヤ26章)。ずっと後、同じように神殿を批判した主イエスはついに殺されます。生活を守り支えるために信仰を利用することは、ついには神の子を殺すのです。信仰によって道を正し、生活を変えるよう求めるエレミヤの声を、受けとめることができるでしょうか。

北部日記 9月25日

 先日、相模原市の施設でおきた殺傷事件は、障がい者の存在を否定する「優生思想」が背景にあると言われることがあります。
 「優生思想」とは「人類の向上のため、優れた人間の子孫を増やし、劣った人間の遺伝子を残さない」という考え方のことです。19世紀から20世紀前半にはさかんに主張され、多くの国でその方策が研究・実施されました。しかし問題は、誰が「優れた人間」かを、何に基づいて誰が判断するかです。「優生思想」をとりいれたナチス・ドイツは、ユダヤ人やスラブ民族などの人種や民族、あるいは障がい者や同性愛者などを「劣った人間」と定め、絶滅をはかりました。この痛ましい経験から、第二次大戦後、「優生思想」は誤った危険な考え方とされるようになりました。
 先週おこなわれた「共に生きる教会形成」集会の講師の安積遊歩さんも、「優生思想」をきびしく批判して語っていました。ただし、安積さんのいう「優生思想」は、さらに広く、「人に価値をつける」という発想そのものをさしています。私たちは、意識的・無意識的に「人に価値をつける」ことを日常的に行ってしまっています。「あれはだめな人間」「あの人は価値ある人」と他者を裁くだけでなく、「自分はどうせ価値のない人間」「自分がきらい」と、自分自身にも価値を定めてしまうのです。そういう発想から自由になるよう、安積さんは促していました。
 きょう、「太平子どもの家」のためのバザーを行います。主イエス・キリストは、当時の社会での「人の価値」にとらわれることなく、こどもたちの存在をみとめ、尊重し、祝福しました。こどもたちへのかかわりを通し、「人に価値をつける」ことから少しでも自由になることをめざしましょう。

2016年9月18日 (日)

「ほくぶカフェ」

リンク: 札幌北部教会・太平子どもの家.

北部日記 9月18日 

 先日、仙台での会合に出席した際、神奈川の教会の信徒の方に声をかけられました。「以前、被災地へのボランティアで札幌北部教会の方といっしょになりました。『うちの教会はとってもいい教会なの。わたし大好き』とおっしゃってました。いいなあ、いつか行ってみたいな、と思ってます」と言うのです。とてもうれしくなりました。
 先月、女性の会の「おとまり会」がありました。土曜日の夕方、めいめい食べ物をもちよって教会に集まり、自分のこと、家庭のこと、教会のこと、世の中のことなど、十数人で楽しく、まじめに、夜のふけるまでたっぷりおしゃべり。ふとんも用意してそのまま泊まった人が半分ほどだったでしょうか。翌日は日曜日、そのまま礼拝へ。
 たまにこれといって行事のない日曜日の午後、こどもたちがいつまでも教会に残って遊んでいることもあります。幼稚園児も高校生も、いっしょになって遊んでいるのは、思えばふしぎな、そして貴重な光景です。こどもたちもそれが楽しくうれしいのでしょう。
 大好きな教会の集まりの、頂点であり基礎であるのが日曜の礼拝です。礼拝の際、前のほうから会衆席を見ていると、それぞれの表情がよく見えます。みんながいそいそと教会に集まり、いっしょにイエスさまのふところに抱かれる思いで共にあることをよろこんでいることが伝わってきます。
 けれども、身体が衰え、心が弱って、その大好きな教会に足を運ぶことができなくなっている人たちを思います。どこにいても、みんなといっしょにあることを味わえたらと願うのです。

2016年9月17日 (土)

9月11日 「主はどこにおられるのか」

「主はどこにおられるのか」

ヤコブの家よ

イスラエルの家のすべての部族よ

主の言葉を聞け。

主はこう言われる。お前たちの先祖は

   わたしにどんなおちどがあったので

遠く離れて行ったのか。

彼らは空しいものの後を追い

空しいものとなってしまった。

彼らは尋ねもしなかった。

「主はどこにおられるのか

わたしたちをエジプトの地から上らせ

あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地

乾ききった、暗黒の地

だれひとりそこを通らず

人の住まない地に導かれた方は」と。

わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き

味の良い果物を食べさせた。

ところが、お前たちはわたしの土地に入ると

そこを汚し

わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。

祭司たちも尋ねなかった。

「主はどこにおられるのか」と。

律法を教える人たちはわたしを理解せず

指導者たちはわたしに背き

預言者たちはバアルによって預言し

助けにならぬものの後を追った。

それゆえ、わたしはお前たちを

あらためて告発し

また、お前たちの子孫と争うと

主は言われる。

(エレミヤ2章4~9節)

  これからしばらくエレミヤ書を学びます。エレミヤは、ユダ王国が滅亡にむかう時代に活躍した預言者です。

かつてのイスラエルの統一王国が分裂した後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされましたが、南のユダ王国はアッシリアに従属することで生き延びました。アッシリアに服従し、その文化制度を取り入れ、さらにはエルサレムの神殿でアッシリアの神々を祭るようにさえなっていたようです。

 エレミヤは、そのようなユダ王国のありかたを厳しくとがめる神のことばを伝えました。神は、ご自分の民が危機に直面したとき、ちょうど子どもが恐ろしい目にあったときに親を捜し求めるように、「主はどこにおられるのか」と捜し求める信仰を期待していたのです。

 困難にあったとき、それまでの信仰を捨ててしまうことがありますが、もっと問題なのは、無自覚のうちに信仰の内容をすりかえ、神ではないものをあがめたてまつることになってしまうことです。

 かつての戦争の時代、日本の教会は、国家に従い、神社に参拝し、天皇を拝むようにして時代を生き延びました。しかしそうした姿勢は、エレミヤが告げた神のことばに耐えることができるでしょうか。  

 同じように、15年前の9・11事件に際し、アメリカの教会は、敵を愛せと教えた主キリストより、報復を促す国家に従ったのではなかったでしょうか。また今、日本の教会の存続の危機が叫ばれている中、いつのまにか、効率や成果を重んじる、企業の価値観が教会のなかでもあがめられるようになっていないでしょうか。

 困難の中で、信仰の中身をすりかえ変質させるのではなく、「主はどこにおられるのか」と尋ね求め続ける信仰が求められるのです。

2016年9月11日 (日)

北部日記 9月11日

 先週、福島県の飯舘村を訪れる機会がありました。福島第一原発の事故の影響で、人々の暮らしが失われたところです。
 それまで、この村では、ゆたかで楽しい生活が営まれていたことを聞きました。ゆたかな山や川の恵みがあり、山菜をとり、魚を釣り、マツタケやタケノコを味わい、田畑を耕し、牛を飼い、果物が実り、ご近所とのつきあいを楽しみ・・・それがすべて、放射能汚染によって失われてしまったのです。
 村のなかをめぐると、田畑は荒れ、畜舎は空になり、家はひっそりとしています。避難生活からいつかは帰ってくることを願って、今も手がいれられているだけに、かつての美しくゆたかな情景が容易に想像され、かえって痛ましさがつのります。
 しかし、その風景が、北海道の地方の過疎地域の離農した跡地にもどこか重なってみえてきました。利益を求め、その時の思惑で力づくの方策をおしすすめた果てに、痛みをおしつけられた土地と暮らしという点では通じるものがあるように思えたのです。
 災害は、隠されていた問題をあらわにする、といいます。家族の関係、地域の課題、社会の構造など、あらゆるレベルでそれまでひそかに抱えてきた問題が、危機の中で一気に吹き出してくるのです。
 地震、津波、そして放射能事故という災害そのものもまだ解決していません。それとともに、そこにあらわにされてきた、もっと普遍的で根深い問題をも直視し、課題としてとりくまねばならないのです。

2016年9月10日 (土)

バザー

札幌北部教会バザー
9月25日(日)12:30~14:30
収益は太平子どもの家のために用いられます。

お月見コンサート

太平子どもの家 お月見コンサート
9月16日(金)19:00
出演 北星学園大学スミス・ミッションセンター チャペ

ル・クワイヤのみなさん
入場料 1家族300円(おつきみまんじゅうつき)
どなたでもどうぞ

9月4日 「主に結ばれて」 召天者記念礼拝

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」 (黙示録14章13節)
 今日は召天者記念礼拝です。召された方々の生涯を思い起こします。中には、迫り来る困難や理不尽な力に苦しめられ続けた人生もあります。
 黙示録の著者ヨハネは、恐ろしい竜や獣が迫ってくる幻のなかで、天からの声を聞きました。「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という句は、主イエスの山上の説教の幸いの宣言にも通じる慰めのことばです。
 「主に結ばれて」とは、原文を直訳すると「主の中で」とあります。「主にあって」とも訳される、聖書の特徴的な表現です。簡単にいえば「主を信じて」という意味ですが、自分の力で信じるというより、主ご自身のみわざを強調した表現です。さらに「主の中で」には「主の教会の中で」とのニュアンスもあります。
 「今から後」と前置きがありますが、この「今」とは、竜や獣であらわされる外からの苦難が迫っている時のことです。苦難が迫る中でも、なお主の中で生き、教会に留まり続ける、そのことは決してむなしくなることはない、幸いを与えられる、と主は宣言するのです。
 戦争中、学生だったキリスト者の尹東柱(ユンドンジュ)は、祖国朝鮮と同胞の苦難の時の中で、「いのち尽きる日まで天を仰ぎ・・・与えられた道を歩み行かねば」とうたいました。彼自身、治安維持法違反で逮捕され、27歳で獄死します。しかし、残された詩が知られるようになり、いま韓国では国民的詩人として親しまれています。
 困難や理不尽の中、なお、天を仰ぎ、与えられた道を歩む、主に結ばれた、主の中での歩みを、主はけっしてむなしくはされません。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と、慰めと祝福を宣言する、主の約束を受けとめましょう。

2016年9月 4日 (日)

北部日記 9月4日

 先週の台風被害について、各教会関係の情報です。
○共働学舎の近くの川の下流付近では急流で畑や小学校近くの護岸、道が大きくえぐられ、景観がすっかり変わってしまったようです。JRの橋も流出してしまったところがあります。さらには国道側の役場や住宅地などが広く冠水しています。ただ、電気は通っているとのこと。(新得教会代務 杉岡牧師)
○三愛畜産センターの管理者、O家の牛舎の屋根のトタンが半分はがれてしまい骨組みだけで雨ざらしの状況にあります。また教会員の農家の稲も全体的に斜めに倒れ、場所によっては倒れてしまっているところがあります。他にも大木が2本倒れ、家畜や倉庫には被害がなかったけれど片付けるのが大変です。(利別教会 石橋牧師)
○北見望ヶ丘教会ですが、礼拝堂の天井から雨水漏れが激しかったです。大幅な修理が必要です。信徒のお宅で、道路の水が洪水のように家屋に流れ、地下室が浸水。ボイラーが全壊し生活が困難になりました。(北見望が丘教会 安部牧師)
○帯広教会は特に大きな被害はありません。教会の庭の桜の木が倒れ電線にひっかかりましたがうまく(?)倒れたので停電にならず,「北電」に取り除いてもらいました。(帯広教会 Sさん)
○道東道が復旧したので新得に入ることが出来ました。教会の方ともお会い出来ましたが、不便は断水のみ、とのことでした。(1日に新得を訪れた札幌元町教会 高濱牧師)

2016年9月 3日 (土)

8月28日 「完全な礼拝」

もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。  (黙示録22章3~4節)
  黙示録の最後には、神の新しい都で礼拝が献げられる情景が描かれます(22:3)。なぜ、なんのために神の民は礼拝を献げるのでしょうか。
  礼拝をあらわす「ラトレウオー」という語は「仕える」という意味です。聖書では、信仰することを「神に仕える」という言い方をしますが、それは「神を礼拝する」ということにほかなりません。信仰とは、礼拝することです。
 やはり礼拝をあらわす「レイトウルゲオー」という語は、「民のつとめ」という意味です。礼拝は、神の民の義務であり、また責任、使命です。礼拝のつとめが、神の民に与えられています。礼拝するところに、神の民、教会がなりたつのです。
 だから、「礼拝は何のため」と問うのはまちがいです。礼拝は、何かの手段ではなく、目的です。礼拝することが、私たちの信仰なのです。
  しかし、私たちはそのつとめを完全にはたすことができているでしょうか。現実のわたしたちの礼拝には、欠けがあります。きょう、この集いに、欠けている仲間がいます。病気や事情で欠席したり、もう長く教会を離れている友、さらには天に召された方々がいます。さらには、主の前に招かれているはずなのに、私たちが気づいておらず、出会うこともなく、隔てられたままの多くの人々があります。私たちの礼拝はまだまだ不完全です。
  さらに、黙示録の時代のように、外からの圧迫や困難によって、礼拝することが妨げられることもあります。
  そのような教会の現実に対し、黙示録は、主がもたらしてくださる完全な、永遠の礼拝の幻を示したのです。私たちは、欠けを抱えていてもなお、主がこられる完成のとき、完全にされるときを信じ、見上げ、この地上を歩むのです。完成された礼拝を希望として、いまここでの礼拝を献げましょう。

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