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2016年9月 3日 (土)

8月28日 「完全な礼拝」

もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。  (黙示録22章3~4節)
  黙示録の最後には、神の新しい都で礼拝が献げられる情景が描かれます(22:3)。なぜ、なんのために神の民は礼拝を献げるのでしょうか。
  礼拝をあらわす「ラトレウオー」という語は「仕える」という意味です。聖書では、信仰することを「神に仕える」という言い方をしますが、それは「神を礼拝する」ということにほかなりません。信仰とは、礼拝することです。
 やはり礼拝をあらわす「レイトウルゲオー」という語は、「民のつとめ」という意味です。礼拝は、神の民の義務であり、また責任、使命です。礼拝のつとめが、神の民に与えられています。礼拝するところに、神の民、教会がなりたつのです。
 だから、「礼拝は何のため」と問うのはまちがいです。礼拝は、何かの手段ではなく、目的です。礼拝することが、私たちの信仰なのです。
  しかし、私たちはそのつとめを完全にはたすことができているでしょうか。現実のわたしたちの礼拝には、欠けがあります。きょう、この集いに、欠けている仲間がいます。病気や事情で欠席したり、もう長く教会を離れている友、さらには天に召された方々がいます。さらには、主の前に招かれているはずなのに、私たちが気づいておらず、出会うこともなく、隔てられたままの多くの人々があります。私たちの礼拝はまだまだ不完全です。
  さらに、黙示録の時代のように、外からの圧迫や困難によって、礼拝することが妨げられることもあります。
  そのような教会の現実に対し、黙示録は、主がもたらしてくださる完全な、永遠の礼拝の幻を示したのです。私たちは、欠けを抱えていてもなお、主がこられる完成のとき、完全にされるときを信じ、見上げ、この地上を歩むのです。完成された礼拝を希望として、いまここでの礼拝を献げましょう。

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