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2016年10月

2016年10月30日 (日)

北部日記 10月30日

 二年に一度の日本キリスト教団の総会が、先週、東京・池袋で開催されました。議員定数400名のうち、北海教区からは14人の議員が選出されています。しかし、ずっと「教団とは距離を置く」と表明している沖縄教区からは今回も議員が選出されず、空席のままでした。
 教団の三役選挙では、石橋秀雄議長・佐々木美智夫副議長・雲然俊美書記とも再任されました。常議員の選挙では、全員が現執行部を支持する人たちから選ばれる結果でした。長崎哲夫総幹事の退任が決まりましたが後任を選べず、総務幹事が総幹事事務取扱となりました。
 総会には特別決議の提案が多数ありました。伝道資金制度、沖縄教区との関係、北村牧師の戒規問題、改憲と軍事力強化への反対、性差別問題、二種教職制の是正など、教団の内外にわたる具体的な問題に関する議案は、ほとんどすべて否決もしくは廃案となり、狭山事件の再審を求める決議だけが採択されました。総会直前、沖縄・高江での基地建設の反対運動に携わった牧師が逮捕される事件がありましたが、これに対する抗議声明も見送られ、議長が祈りを献げるに留まりました。
 厳しい時代にもかかわらず、教団がますます内むきになって閉じこもるような姿勢があらわになった総会でした。
 ところで、議長選挙には対抗馬として「久世そらち」の名が。常議員選挙でも補欠の第一位。それなのに、本人は1日目を終えたところで体調を崩し、その後の会議は欠席に。議員の責任を果たすことができず、たいへん情けないかぎりです。かえすがえすも不本意な総会でした。

10月23日 「その日がきたら」 収穫感謝日

そのときには、と主は言われる。
わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
主はこう言われる。
民の中で、剣を免れた者は
荒れ野で恵みを受ける
イスラエルが安住の地に向かうときに。
遠くから、主はわたしに現れた。
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し
変わることなく慈しみを注ぐ。
おとめイスラエルよ
再び、わたしはあなたを固く建てる。
再び、あなたは太鼓をかかえ
楽を奏する人々と共に踊り出る。
再び、あなたは
サマリアの山々にぶどうの木を植える。
植えた人が、植えたその実の初物を味わう。
見張りの者がエフライムの山に立ち
呼ばわる日が来る。
「立て、我らはシオンへ上ろう
我らの神、主のもとへ上ろう。」
               (エレミヤ31章1~6節)
  5節のことばは、エレミヤの時代にはあえてサマリアにぶどうを植えようという人がいなかったことを前提にしています。サマリアには先に滅亡したイスラエル王国の都がありました。亡国の戦乱でサマリアの町も畑も荒れ果てていたのでしょう。
  「植えた人が・・・初物を味わう」ことができないのは、戦争のためばかりではありません。力あるものが支配するとき、実りのよいところは支配者に収奪され、植えた農民たちがそれを味わい楽しむことができません。植えた人が実りを味わえないのは、正義と平和が失われているしるしです。
 北海道は「出来秋」を迎えています。しかし、今、農業は厳しい状況におかれ、各地には、離農の跡を見かけます。植えた人が、実りを味わうことができない状況です。
 聖書は、しかし、植えた人が初物を味わうとき、主の日、救いのときの到来を告げています。その日は来ると希望を告げるのです。
 それは、隔てられていた人々が共に生きる希望の日でもあります。
 イスラエル民族は、かつて南北に分裂して対立していました。サマリアを都とするイスラエル王国(エフライム)と、エルサレム(シオン)を都とするユダ王国は戦火を交えたこともありました。しかし、いつか、その日がきたら、サマリアにぶどうが植えられ、エフライムからシオンヘと人々が集まってきて、共に主を礼拝する、と告げられています(5~6節)。それが、主の日に、いつか実現する平和の希望なのです。
 わたしたちの社会も、正義と平和がそこなわれ、人と人とが隔てられ、引き裂かれ、対立や争いの中にあります。しかしそれでもなお、「その日が来たら」と平和の実現を信じるのです。

2016年10月23日 (日)

北部日記 10月23日

 先週、交換講壇で美唄教会を訪れました。
 美唄教会は、1950年代の「北海道特別開拓伝道」で生まれた教会のひとつです。当時、発展が見込まれた炭鉱の町に伝道が進められ、美唄めぐみ幼稚園も開設されました。状況は一転して炭鉱は閉山していきますが、その後も教会は地域社会の課題をしっかりと担ってきました。週報には、21日に行われる「国際平和南空知集会」について、「美唄教会も幹事団体のひとつです」と参加のよびかけがありました。沖縄の基地や差別の問題にもずっと関心をよせています。
 礼拝は20名ほどでしたが、こどもやその親の世代、そして年配の人たちと、バランスよく集っていました。礼拝の後はもちよりの愛餐会。教会員それぞれが腕をふるった料理が、食べきれないほど並びます。皆で楽しくお話しながらいただきました。年に一度みんなで研修旅行をするということですが、なるほど仲のよさが伝わってきました。
 いっぽう、この日、北部教会を訪れた木村先生からは、「北部教会では歓迎していただいてとっても楽しかったです。それにしても、皆さん、しっかりとお話しされるんですねえ」との感想が。愛餐会でマイクが回ると誰もがきちんと自分の考えを述べるのはすごい、というのです。言われないとあんがい気づかない、北部教会の賜物ですね。
 さて、今日は、女性の会で札幌富丘伝道所をお訪ねします。昨年度、北部教会の一日修養会でS藤さんから富丘伝道所のお話を聞きました。他の諸教会と出会い、理解と交流を深めることが、今後の北部教会の力ともなっていくでしょう。

2016年10月15日 (土)

地区間交換講壇

明日、10月16日の礼拝は、石狩空知地区の美唄教会と「地区間交換講壇」を行います。美唄教会の木村拓己牧師が礼拝説教にあたります。また、木村幸牧師がこどものお話を担当してくださいます。

10月9日 「契約という希望」

あなたはユダを退けられたのか。

シオンをいとわれるのか。
なぜ、我々を打ち、いやしてはくださらないのか。
平和を望んでも、幸いはなく
いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
主よ、我々は自分たちの背きと先祖の罪を知っています。
あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
我々を見捨てないでください。
あなたの栄光の座を軽んじないでください。
御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め、それを破らないでください。
国々の空しい神々の中に
雨を降らしうるものがあるでしょうか。
天が雨を与えるでしょうか。
我々の神、主よ。
それをなしうるのはあなただけではありませんか。
我々はあなたを待ち望みます。
あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。
                 (エレミヤ14章19~22節)
 エレミヤが生きたのは暗い絶望が広がっていく時代でした。ユダ王国の繁栄は過ぎ去り、社会には混乱や不正がはびこり、信仰は形骸化し、東から大国バビロニアが台頭して圧迫を加えて戦いが起こってきました。14章冒頭にあるように、干ばつなど自然災害にも襲われます。
 エレミヤは、この時代の民の嘆きを言い表します(19節)。ここで「なぜ」と問うのですが、実はその理由はわかっています。それが20節に示されています。「我々は過ちを犯し」たのです。
 苦しみが、理由のない理不尽なものなら、ヨブのように神を問いただすこともできるでしょう。しかし、自分の過ちと罪を自覚するとき、なぜと問うこともできず、その絶望はなお深いのではないでしょうか。
 私たちの時代もまた、そういう絶望に覆われています。困難や苦悩が重なっていますが、私たちはうすうすその理由を知っているのです。「自己責任」といえば聞こえはいいですが、「自業自得」ということです。私たち自身が道を誤り、いまこのようになってしまっているのです。
 自業自得、というべき絶望の中、エレミヤはなおひとつの希望を示します。神は我々と契約を結んでくださいました。愚かにも人間がそむいたとしても、神は、ご自身の栄光と御名にかけて、それを破ることはなさらないはずだと訴えるのです。神は、とるにたりない民に、なぜか手を差し伸べ、ご自身の民とし、またご自分をこの民の神としてくださいました。ここに神の愛と憐れみがあります。それは、人の弱さにもかかわらず、失われることはありません。人間の絶望を超える希望が、ここにあります。
 私たちは、イエス・キリストによって新しくされた契約の中にあります。わたしたちの罪を超える、契約という希望を信じましょう。

2016年10月 9日 (日)

北部日記 10月9日

 JR北海道は、利用者の少ない駅の廃止を検討していますが、一日の平均利用者が1名以下の駅に、宗谷本線の塩狩駅も含まれています。
 塩狩駅を何度か訪れたことがあります。駅のそばに古びた温泉宿があり、いつも閑散としていましたが、毎年、厳冬の2月に一時のにぎわいを見せていました。かつて鉄道事故で殉職した長野政雄さんを記念して、事故のあった2月28日に塩狩駅で行われる祈祷会のため、全国から何人もの人たち(多くは若者たち)が集まってくるのです。長野さんは、いうまでもなく三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の主人公、永野信夫のモデルです。小説に心動かされて、真冬の北海道の山の中の小さな駅で、凍える夜半にろうそくをともして行われる祈祷会のために、はるばる足を運んできた人たちの真剣なまなざしを思い出します。
 長野政雄さんと三浦綾子さんが所属していた旭川六条教会の壮年会では、塩狩駅にポストを設置して、『塩狩峠』を読んで訪ねてきた人が感想文を残していくことができるようにしていました。年に一回、それをまとめて文集を作成するのです。そこにも、いろいろな人生と、その中で出会った『塩狩峠』への真剣な思いがつづられていました。
 きょう、森下辰衛さんから三浦文学について講演をききます。人の心をゆさぶる三浦文学を、いっそう深く味わいましょう。
 塩狩峠には、今、三浦綾子さんご夫妻の旧宅が移設され、いろいろな資料が展示されています。いっぽう温泉宿はもうなくなってしまいました。塩狩駅は、まだ廃止とは決まっていません。こんどはちゃんと鉄道を利用して塩狩駅を訪ねなければなりませんね。

2016年10月 8日 (土)

10月2日 「みことばを食べる」世界聖餐日

あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって
呼ばれている者です。
(エレミヤ15章16節)
 聖餐は「見えるみことば」といわれます。パンと杯という物と、祈って分け合い食べるという行為によって神のみこころを示し、福音を伝えるものだからです。聖餐にあずかることは、いわば「みことばを食べる」ことです。
 エレミヤは、みことばを「むさぼり食べる」と表現しています。エレミヤは非常に深い苦悩の中にありました(15章10節、15節)。そのなかで必死に神を尋ね求めたエレミヤに与えられたのが「みことばをむさぼり食べる」という体験だったのです。
 苦悩や嘆きのなかで、みことばに出会い、それが心に響きまた迫ってくることがあります。これまで知らなかった聖書の句を知ることもありますが、何度もきいていたことばが新しい意味をもって聞こえてくることもあります。そうやってみことばをむさぼり食べ、それが「わたしのものとなり、わたしの心はよろこび躍りました」という体験を味わうのです。
 体は食べ物によって作られます。質の良い食べ物で身体を作らなければなりません。同様に、わたしたちの精神はことばによって養われ形作られます。悪いことばではなく、みことばを食べるとき、わたしたちの精神は命の力を与えられ、生かされます。エレミヤに与えられたみことばは、エレミヤを「堅固な青銅の城壁」(20節)へと形作って行きます。みことばによって苦難や試練に耐えうる信仰と精神がつちかわれていくのです。
 エレミヤに先立つ預言者アモスは、みことばが失われ、みことばに飢える危機を警告しました(アモス8:11~12)。今こそみことばを食べ、養われなければなりません。
 今、世界中で、苦悩や危機の中、みことばを求め、むさぼり食べようとしている兄弟姉妹とともに、命の糧、見えるみことばを食べましょう。

2016年10月 2日 (日)

北部日記 10月2日

 先週のバザーは好天にめぐまれ、はりきって準備を進めることができました。いつもよりお客さんの数が少ないようでしたが、その分、売り場の担当者もゆっくり買い物に回って楽しめたようです。
 今回も中標津伝道所を通じて限定販売チーズをとりよせて販売しました。こうすると中標津伝道所の収入となるのです。ところが、チーズをとりよせるには送料がかかります。30個入りー箱ちょうどだと送料無料になるのですが、需要にくらべ30個では品不足で60個では多すぎます。そこで、同じ日にバザーを行う札幌元町教会と札幌富丘伝道所に声をかけ、それぞれ10個ずつ引き受けてもらって北部教会では40個を売ることにしました。チーズとバザーで4つの教会がつながりました。
 また、今回のバザーには東札幌教会と新発寒教会からの出店もありました。それぞれの教会の会計を支えるため、いろいろユニークな商品を販売していました。とくに新発寒教会は、いま新会堂の建築工事中で自分の教会ではバザーが行えないいっぽう、建築のために多くの資金を集めなければなりません。北部教会のバザーでの収益が、少しでも力になればうれしいことです。
 今回のバザーは、太平子どもの家の運営資金のために行われました。少しでも収益を増やそうとバザー委員会がよびかけ、実際に収益はここ数年の実績を上回りそうです。けれどもそれ以上に、多くの人たちや、また共にある諸教会との出会い、つながり、交わり、協力がうれしいバザーとなりました。朝の礼拝でとびだした、「バザーは楽しいのが給料!」という名言のとおり、たくさん与えられたバザーでした。

2016年10月 1日 (土)

9月25日「神の重荷」

正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。
口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです。
主よ、あなたはわたしをご存じです。
わたしを見て、あなたに対するわたしの心を究められたはずです。
彼らを屠られる羊として引き出し、殺戮の日のために取り分けてください。
いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。
そこに住む者らの悪が鳥や獣を絶やしてしまった。
まことに、彼らは言う。
「神は我々の行く末を見てはおられない」と。
あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。
平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか。
あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。
彼らを信じるな、彼らが好意を示して話しかけても。
(エレミヤ12章1~6節)

 預言者として語るつとめを与えられたエレミヤですが、そのことばは人々には受け入れられず、かえって反感や怒りを買いました。故郷アナトトの人々までがエレミヤを殺そうとはかっていることを知ってエレミヤは大きな衝撃をうけます(11章18節以下)。エレミヤはその苦悩を「あなたと争い、論じたい」と神にぶつけます。神に従う者がそれゆえにかえって苦しみ、逆らう者が安穏としているのはなぜか、と問うのです。
 旧約聖書のヨブ記でも、正しい人ヨブが理不尽な苦しみを与えられ、神に「なぜ」と問いただします。しかし神は、人間が納得いくような説明は与えません。神は人間に理解してもらおう、わかってもらおうなどとはなさらず、ヨブに対して「神は神だ」と圧倒的な姿で迫るだけです。
 神は、従う者に重荷を負わせ苦しみを与えることがあります。納得いかない重荷です。その意味を安直に理解してはならないのです。
 しかし、神は、ご自身でその重荷を負われる方でもあります。御子キリストの理不尽な死は、なおのこと納得いかないできごとです。しかし神は、そのようにされる方なのです。
 キリストを信じるものは苦しみをも与えられると、パウロは記しました(フィリピ1:29)。その理由は、わたしたちにはわかりません。ただ、その苦しみ重荷が「神の重荷」だとは言えるでしょう。神が与えた重荷であり、そしてまた、神が共に負ってくださっている重荷です。
 キリストご自身が、「わたしのくびきを負いなさい」とよびかけています。神の重荷、キリストのくびきを担うとき、わたしたちはふしぎにも安らぎを得られると告げるのです(マタイ11:29~30)。神の重荷を、受け止め、担うことができるでしょうか。

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