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2016年10月 1日 (土)

9月25日「神の重荷」

正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。
口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです。
主よ、あなたはわたしをご存じです。
わたしを見て、あなたに対するわたしの心を究められたはずです。
彼らを屠られる羊として引き出し、殺戮の日のために取り分けてください。
いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。
そこに住む者らの悪が鳥や獣を絶やしてしまった。
まことに、彼らは言う。
「神は我々の行く末を見てはおられない」と。
あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。
平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか。
あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。
彼らを信じるな、彼らが好意を示して話しかけても。
(エレミヤ12章1~6節)

 預言者として語るつとめを与えられたエレミヤですが、そのことばは人々には受け入れられず、かえって反感や怒りを買いました。故郷アナトトの人々までがエレミヤを殺そうとはかっていることを知ってエレミヤは大きな衝撃をうけます(11章18節以下)。エレミヤはその苦悩を「あなたと争い、論じたい」と神にぶつけます。神に従う者がそれゆえにかえって苦しみ、逆らう者が安穏としているのはなぜか、と問うのです。
 旧約聖書のヨブ記でも、正しい人ヨブが理不尽な苦しみを与えられ、神に「なぜ」と問いただします。しかし神は、人間が納得いくような説明は与えません。神は人間に理解してもらおう、わかってもらおうなどとはなさらず、ヨブに対して「神は神だ」と圧倒的な姿で迫るだけです。
 神は、従う者に重荷を負わせ苦しみを与えることがあります。納得いかない重荷です。その意味を安直に理解してはならないのです。
 しかし、神は、ご自身でその重荷を負われる方でもあります。御子キリストの理不尽な死は、なおのこと納得いかないできごとです。しかし神は、そのようにされる方なのです。
 キリストを信じるものは苦しみをも与えられると、パウロは記しました(フィリピ1:29)。その理由は、わたしたちにはわかりません。ただ、その苦しみ重荷が「神の重荷」だとは言えるでしょう。神が与えた重荷であり、そしてまた、神が共に負ってくださっている重荷です。
 キリストご自身が、「わたしのくびきを負いなさい」とよびかけています。神の重荷、キリストのくびきを担うとき、わたしたちはふしぎにも安らぎを得られると告げるのです(マタイ11:29~30)。神の重荷を、受け止め、担うことができるでしょうか。

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