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2016年10月15日 (土)

10月9日 「契約という希望」

あなたはユダを退けられたのか。

シオンをいとわれるのか。
なぜ、我々を打ち、いやしてはくださらないのか。
平和を望んでも、幸いはなく
いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
主よ、我々は自分たちの背きと先祖の罪を知っています。
あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
我々を見捨てないでください。
あなたの栄光の座を軽んじないでください。
御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め、それを破らないでください。
国々の空しい神々の中に
雨を降らしうるものがあるでしょうか。
天が雨を与えるでしょうか。
我々の神、主よ。
それをなしうるのはあなただけではありませんか。
我々はあなたを待ち望みます。
あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。
                 (エレミヤ14章19~22節)
 エレミヤが生きたのは暗い絶望が広がっていく時代でした。ユダ王国の繁栄は過ぎ去り、社会には混乱や不正がはびこり、信仰は形骸化し、東から大国バビロニアが台頭して圧迫を加えて戦いが起こってきました。14章冒頭にあるように、干ばつなど自然災害にも襲われます。
 エレミヤは、この時代の民の嘆きを言い表します(19節)。ここで「なぜ」と問うのですが、実はその理由はわかっています。それが20節に示されています。「我々は過ちを犯し」たのです。
 苦しみが、理由のない理不尽なものなら、ヨブのように神を問いただすこともできるでしょう。しかし、自分の過ちと罪を自覚するとき、なぜと問うこともできず、その絶望はなお深いのではないでしょうか。
 私たちの時代もまた、そういう絶望に覆われています。困難や苦悩が重なっていますが、私たちはうすうすその理由を知っているのです。「自己責任」といえば聞こえはいいですが、「自業自得」ということです。私たち自身が道を誤り、いまこのようになってしまっているのです。
 自業自得、というべき絶望の中、エレミヤはなおひとつの希望を示します。神は我々と契約を結んでくださいました。愚かにも人間がそむいたとしても、神は、ご自身の栄光と御名にかけて、それを破ることはなさらないはずだと訴えるのです。神は、とるにたりない民に、なぜか手を差し伸べ、ご自身の民とし、またご自分をこの民の神としてくださいました。ここに神の愛と憐れみがあります。それは、人の弱さにもかかわらず、失われることはありません。人間の絶望を超える希望が、ここにあります。
 私たちは、イエス・キリストによって新しくされた契約の中にあります。わたしたちの罪を超える、契約という希望を信じましょう。

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