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2016年11月

2016年11月27日 (日)

北部日記 11月27日

 アドベントに入りました。本格的な冬となって雪に覆われる前に、やっとのことで庭や畑の冬支度をなんとかすませました。
春から夏の気候のよい時分、朝の少しの時間に庭や畑をいじるのが楽しみでした。ちょうど、いろいろな幼稚園の送迎バスが行きかう時間帯にあたり、うちの子たちも通った麻生明星幼稚園のバスも目の前を通ります。添乗の先生と目があって会釈することも。ときには園長でもある麻生教会の久保哲哉牧師が乗っていることもありました。あとで聞くと、幼稚園としては小規模のため、園長が現場にでなければならない場面もしばしばあるとのこと。日々のお働きを思います。
 今日は札幌地区のよびかけによる礼拝交流として、麻生教会の久保牧師を説教者にお迎えします。着任して4年目の久保先生は、若いながらも堅実に教会・幼稚園のつとめを果たしておられます。これからに期待もかかります。
 わたしたちの教会にとっては、麻生教会は最も近い隣の教会であるばかりではありません。榎本栄次牧師の開拓伝道が始まったときには、麻生教会の栄英彦牧師や信徒の方々も支援の働きに加わってくださいました。近年では「太平子どもの家」から「麻生明星幼稚園」に入園していくこどもたちも少なくありません。札幌地区では、地区内の諸教会の交流を深めるため、グループ分けを提案していますが、そこでも麻生教会と北部教会、そして札幌元町教会がひとつのグループと想定されています。さまざまなつながりの深い麻生教会と、これからまた新たな交わりを発展させていきたいと願っています。

2016年11月26日 (土)

11月20日 「この地に生きる」

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。     (エレミヤ29章4~7節)
 バビロン軍はユダ王国に侵攻し、王をはじめ主だった人々をバビロンに連行しました。「バビロン捕囚」の始まりです。捕囚とされた人々は、バビロンでいやおうなしに新しい生活を始めなければなりませんでした。
 捕囚の現実を受け入れず、すぐにも解放されるとの幻想にしがみつく人々もいたでしょう。厳しい運命に生きる気力を失った人々や、怒りとうらみでバビロンの滅亡を願い自暴自棄になる人々、さらにはアイデンティティを捨ててバビロンの民になりきろうとする人々もいたでしょう。見知らぬ町、異質な人々の中で、これからどう生きるか、深刻な問いに直面したのです。
エルサレムに残されていたエレミヤは、バビロンの人々に手紙を書き送りました。その中で「バビロンに根付いて暮らし、世代を重ね、バビロンのために平和を祈れ」と教えたのです。捕囚の現実を受け入れ、しかしあきらめることなく、地域社会で共に暮らし、なお自分たちのアイデンティティを保ち続けるようにというのです。捕囚の民は、けっきょく歴史の中をそのように生きることとなりました。捕囚の地に根付きながら、異質な少数者としての自覚を保ち続け、何世代かの後に解放のときを迎えるのです。
 このような神の民の生き方は、教会の生きる道でもあります。教会もまた、この町、地域社会にあって、その一員として社会のために祈りながら、しかしなお少数の異質なものとしてありつづけるのです。
 わたしたちの教会の歩みもそうです。この町、地域の一員として共に生きることをこころざし、この社会の平和を祈ってきましたが、社会の大勢に同調し溶け込んでしまうのではなく、世のありかたへの批判や抗議をあえて公にすることもあります。教会は、この社会にとっては異質な少数者と見られているでしょう。わたしたちは「地上ではよそ者」(ヘブライ11:13)であることを自覚し、主の日を待ちながら、この地に生きるのです。

2016年11月20日 (日)

北部日記 11月20日

 昨日、「となりびとになるために 道北地区の連帯に学ぶ」というテーマで札幌地区大会が行われました。
 開会礼拝では、秋山千四郎牧師がマルコ9:33以下から、「某教区の某地区の大会で、『どの教会がいちばんいい教会か』を話し合った。しかし、イエスさまは、いちばん小さく弱い教会を、その中心に立たせた」とメッセージを語りました。
 主題講演は西岡昌一郎牧師。無牧師となり信徒も集らなくなった和寒伝道所を道北地区全体で支えて礼拝を守り続け、そこからゆたかな恵みが与えられてきていること、また、やはり廃止を懸念された美馬牛福音伝道所が道北地区の支援で会堂を新築し、今は10名を超える礼拝を献げていることが紹介されました。教会が、乏しく厳しい状況になっている今だからこそ、顔と顔をあわせ、つながって、共に働くことをめざし、そしてそこに大きな喜びと楽しみが備えられていることが、いきいきと語られたのです。
 そのあと、札幌地区の将来構想委員会からの具体的な提言や、この夏に行われた札幌地区CS合同キャンプの報告があり、これらを踏まえて分団で協議しました。その中では「教区の人数の半分を占める札幌地区の責任を感じる」「教会の交わりの大切さを感じた」「札幌地区でも泊りがけの集会を」「信徒が礼拝を支えることができるように」など、これからにむけた活発な意見がかわされました。
 教会も時代も厳しい状況だからこそ、小さく閉じこもるのではなく、思い切ってでかけていって出会うことの大切さを、あらためて覚えました。

2016年11月19日 (土)

11月13日 「負けた預言者」

 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。預言者エレミヤは言った。
 「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。そして、ハナンヤは民すべての前で言った。
 「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。
                       (エレミヤ28章1~11節)
 エレミヤは自分の首に木のくびきを負う、という異様な姿で、「バビロンのくびきを負え」という神の意志を示しました(27章1節以下)。その姿は人を驚かせましたが、その意味する内容も人を愕然とさせるものでした。
 ユダ王国はバビロンに攻め込まれてエルサレムの神殿も荒らされ、王や主だった人々はバビロンに連行され、かわってかいらいの王ゼデキヤが立てられました。バビロンの属国とされたユダの人々は、バビロンのくびきから解放されることを切に祈り願ったことでしょう。しかし、エレミヤが示したのは正反対に「くびきを負え」というみこころだったのです。
 このとき、人々の思いに沿ったことばを告げたのがハナンヤでした。バビロンからの解放を告げるハナンヤのことばに、人々は喝采したことでしょう。ハナンヤは、人々をだまそうとしたのではなく、神はこの苦境からきっと救ってくださるとまじめに確信して語ったのでしょう。しかし、それはけっきょく、神からのことばではなく、自分たちの願望にすぎなかったのです。
エレミヤは、ハナンヤを批判しますが、ハナンヤはエレミヤの首からくびきをはずして砕きました。人々は胸のすく思いでハナンヤを支持したのでしょう。エレミヤはすごすご引きさがるほかありませんでした。
神のことばは、人を喜ばせ、期待に応えるものとは限りません。みことばに従うとき、人々の前で勝ち誇るどころか、みじめに負けることがあります。みこころに従うとは、つらく重い、みじめなくびきを負うことでもあるのです。
 しかし、負けた者の希望も、やはり神のことばにあります。エレミヤは再び神のことばを聞いて立ち上がります。ハナンヤと再び対決し、裁きを告げたのです(12~17節)。くびきを負う者と、はずす者、負けた者はどちらだったでしょうか。私たちは、神からのくびきを負って、生かされるのです(マタイ11:29~30)。

2016年11月13日 (日)

北部日記 11月13日

 アメリカ大統領選挙の結果は世界を驚かせました。当初は泡沫候補扱いだったトランプ氏が、超大国アメリカのトップに選ばれたのです。予想外の結果にマスコミも各国政府も戸惑いを隠せません。何がこのような結果をもたらしたのか、今さらのようにさまざまな分析が語られていますが、アメリカでも現状への不満が思った以上につもりつもっている、ということは言えるでしょう。ゆたかで強力に見えるこの超大国でも、多くの人々が生活の困難や不安を抱えているのです。
 今月はじめ、香山リカさんの講演を聞きました。今日の社会の中で、多くの、とくに若い人たちが生きることの困難やつらさを抱えていて、その憤りやうっぷんが、社会の変革にとりくんだりすることよりも、むしろ自分にとって異質な弱い立場の人々への攻撃に向かう、ということを指摘していました。同じことが、アメリカでも起こっているのでしょうか。 
 90年代の冷戦終結後、「グローバリゼーション」が加速し、世界的規模の経済活動が発展してきました。しかし、その恩恵を受けるのは、けっきょく社会の上層の一部の人々だけで、どの国でも格差は広がり、生きづらい人々が増えているのです。その不満が、理想を信じて変革に取組むよりも、粗野な自尊感情にしがみついて異質なものを攻撃・拒否・排除する方向に向かっています。世界でのテロの拡大、イギリスのEU離脱、ヨーロッパでの難民排除、日本でのヘイトスピーチの横行や国家主義の伸張など、根は同じように思えます。
 生きづらさや困難に迫られながら、それでも私たちはなお愛と平和を信じることに立つことができるかどうか、大きな試みに直面しています。

2016年11月12日 (土)

11月6日 「陶工の仕事」

主からエレミヤに臨んだ言葉。
「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。
そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」
                         (エレミヤ書18章1~6節)
 プロの陶芸家は、作品が焼きあがっても、気に入らないもの、自分の名にふさわしくないものは叩き壊してしまうそうです。まして、粘土をこね、整形する段階では、何度もつぶしてはやり直すのでしょう。
 エレミヤは陶工の仕事ぶりをながめながら、何を思い浮かべていたでしょうか。創世記に記された、神様が土のちりで人を作った場面でしょうか。あるいは、造り主である神と造られた器にすぎない人間を、陶工と陶器にたとえてそのへだたりを教えたイザヤのことば(イザヤ29:16)でしょうか。
 そのとき、エレミヤは神の語りかけをはっと悟りました。陶工の手のうちにある粘土は、神の民のたとえだと示されたのです。
当時のユダ王国の人々は、迫り来る危機におびえながら、いっぽうで「主は、ご自身の民である我々を滅ぼすようなことはなさらない」と、たかをくくってもいました。しかし造り主である神は、御名にふさわしくないものをつぶし、滅ぼすこともおできになる方なのです。エレミヤが聞いたこの厳しいことばを、今、わたしたちも襟を正して受け止めなければなりません。
 しかし、主がご自分で作ったものを滅ぼすのは、それを新しく作り直すためでもありました。ご自分の民を滅ぼすという厳しい裁きは、神の民をもっとご自分にふさわしいものへ作り直すみわざだったのです。
 エレミヤの時代、ついにユダ王国は滅亡し、民は国を失い、バビロンに捕囚として連れ去られます。しかし数十年の後、ふしぎにも民は新しく作り直されていくことになります。
私たちも、神の裁きや叱責にあい、挫折し、つぶされ、砕かれ、滅びの悲しみを味わうことがあるでしょうか。しかし、主は、そのような厳しい試練を通して、土の器のわたしたちを捨てるのではなく、もっとご自分の名にふさわしいものへ作り直すことをなさるのです。

交換講壇

11月27日の礼拝は、札幌地区礼拝交流として、麻生教会との交換講壇を行います。札幌北部教会の礼拝説教を、麻生教会久保哲哉牧師が担当してくださいます。

ホームページ変更

札幌北部教会の旧ホームページは、プロバイダの都合により閉鎖されました。新しいURLに変更をお願いします。

リンク: ようこそ - 札幌北部教会.

2016年11月 6日 (日)

北部日記 11月6日

 北海道クリスチャンセンターが創立65周年を迎え、11月5日、記念礼拝と記念講演会が行われました。
 記念礼拝の中で、板谷良彦総主事の就任式が行われました。従来、センターは「主事」職をおいていましたが、その職責はしだいに広がり、実務において対外的にセンターの顔の役割も求められるようになりました。「主事」は英語では「プログラム・ディレクター」と表していましたが、「総主事」は「ジェネラル・マネージャー」です。いっそうの責務が支えられるように祈りました。
 記念講演会では、「生きづらい若者たち」とのテーマで精神科医の香山リカさんからお話をうかがいました。講師が大学などで日常的に接している、今の若者たちのおかれている社会状況と、そこからくる現代社会の諸問題をわかりやすく解き明かしてくださいました。メディアでもよく名前をみかける著名な方ですが、講演後はきさくにサインや握手に応じてくださっていました。
 さて、この機会に、クリスチャンセンターでは記念誌を発行しました。関係者のあいさつ文や写真ページなどのほかに、「沿革」としてクリスチャンセンターの歩みがまとめられ、さらに「沿革から見る評価と展望」として全体を総括する文章が収められました。いずれも雨貝館長の手による意義深い力作です。これらによって、はじめてクリスチャンセンターの歴史を一覧できるようになりました。
 私たちの教会ともかかわり深い北海道クリスチャンセンターです。これからの歩みも導かれ、祝されるように祈ります。

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