« 北部日記 11月20日 | トップページ | 北部日記 11月27日 »

2016年11月26日 (土)

11月20日 「この地に生きる」

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。     (エレミヤ29章4~7節)
 バビロン軍はユダ王国に侵攻し、王をはじめ主だった人々をバビロンに連行しました。「バビロン捕囚」の始まりです。捕囚とされた人々は、バビロンでいやおうなしに新しい生活を始めなければなりませんでした。
 捕囚の現実を受け入れず、すぐにも解放されるとの幻想にしがみつく人々もいたでしょう。厳しい運命に生きる気力を失った人々や、怒りとうらみでバビロンの滅亡を願い自暴自棄になる人々、さらにはアイデンティティを捨ててバビロンの民になりきろうとする人々もいたでしょう。見知らぬ町、異質な人々の中で、これからどう生きるか、深刻な問いに直面したのです。
エルサレムに残されていたエレミヤは、バビロンの人々に手紙を書き送りました。その中で「バビロンに根付いて暮らし、世代を重ね、バビロンのために平和を祈れ」と教えたのです。捕囚の現実を受け入れ、しかしあきらめることなく、地域社会で共に暮らし、なお自分たちのアイデンティティを保ち続けるようにというのです。捕囚の民は、けっきょく歴史の中をそのように生きることとなりました。捕囚の地に根付きながら、異質な少数者としての自覚を保ち続け、何世代かの後に解放のときを迎えるのです。
 このような神の民の生き方は、教会の生きる道でもあります。教会もまた、この町、地域社会にあって、その一員として社会のために祈りながら、しかしなお少数の異質なものとしてありつづけるのです。
 わたしたちの教会の歩みもそうです。この町、地域の一員として共に生きることをこころざし、この社会の平和を祈ってきましたが、社会の大勢に同調し溶け込んでしまうのではなく、世のありかたへの批判や抗議をあえて公にすることもあります。教会は、この社会にとっては異質な少数者と見られているでしょう。わたしたちは「地上ではよそ者」(ヘブライ11:13)であることを自覚し、主の日を待ちながら、この地に生きるのです。

« 北部日記 11月20日 | トップページ | 北部日記 11月27日 »

説教要旨」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/520602/64546672

この記事へのトラックバック一覧です: 11月20日 「この地に生きる」:

« 北部日記 11月20日 | トップページ | 北部日記 11月27日 »