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2017年1月

2017年1月29日 (日)

北部日記 1月29日

 毎年、教会では「一日修養会」として学びの時をもつようにしています。きょうの午後、教会の今年度の主題『40年のその先へ、共に』をテーマとして一日修養会を行います。
 年度主題の『共に』の句には、「他の諸教会と共に」という意味が含まれています。40周年を喜び迎えたわたしたちの教会が、これまで以上に他の諸教会との連帯・協力を意識し、また使命としていくよう覚えるねらいがあります。
 その背景には、北海教区の諸教会の厳しい状況があります。とくに道北・道東では無牧師のまま次年度もまだ牧師を迎えるめどがたっていない教会もいくつもあります。困難を抱えるのは、無牧師となった教会だけではありません。無牧師教会には「代務者」を置く必要があり、たいてい近隣の教会の牧師が代務者となって月1回程度その教会に行くのですが、今は代務者のなり手も不足がちです。さらに、代務者を送り出す教会にとっても、毎月1回は牧師が留守になることになり、その日曜日の礼拝をどうするかもかなり重い負担なのです。こうした、無牧師教会や、代務者の教会を支えることが、目下の課題になっているのです。
 すでに各教会で、けんめいにさまざまな取り組みが進められています。そのポイントは、教会の支えあい、連帯です。互いの課題を覚え、共に労苦を分かち合うとき、そこにふしぎにゆたかな恵みが与えられ、喜びが生まれているのです。
そうした恵みを、私たちもこれまでに味わってきました。その体験を分かちあい、これからの北部教会の役割についていっしょに考えましょう。

2017年1月28日 (土)

1月22日 「ほかの舟も」

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。    (マルコ4章35~41節)
 主イエスは、舟の上から岸辺の人々に話をされた(4章1節)その日の夕方、急に「向こう岸にわたろう」と弟子たちを促します。先の見えない夜の闇が迫る中、せっかく集っていた群衆を置き去りにして、向こう岸の異邦人の地へと漕ぎ出た舟は、嵐にあい、波風に翻弄されます。たまりかねた弟子たちは主イエスを起こして「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と皮肉まじりに非難したのですが、主イエスは嵐を静め、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と弟子たちを𠮟ったのでした。
 主イエスの十字架と復活の後、弟子たちは、ユダヤを出て見知らぬ異邦人の地へ向かうことになります。思いもよらなかった主の促しでした。先の見えない道のりを行く中で、弟子たち、つまり教会は、さまざまな困難や時代の嵐に翻弄されます。教会が今にも沈みそうに思える中、主はまるで眠りこけておられるのでは、と不安にかられた弟子ですが、そのときまた、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と問われるのです。
 教会は嵐の中の舟になぞらえられます。しかしそれは、キリストが乗っておられる舟なのです。
 さて、この場面には、ひと言「ほかの舟(複数)も一緒であった」(36節)と触れられています。これはいったい誰の舟だったのでしょう。ほかの弟子たちでしょうか、群衆の一部でしょうか、たまたま行きあわせた無関係の船だったのでしょうか。これらもまた嵐に苦しみ、そして主イエスが嵐を静めたときには共に救われたことでしょう。
 「ほかの舟」は、共に行く他の諸教会のことでしょうか。教会以外の、やはり時代の嵐に苦しめられる人々のことでしょうか。わたしたちは「ほかの舟」ともども、嵐から救ってくださるキリストによって希望の朝の光を仰ぐのです。

2017年1月22日 (日)

北部日記 1月22日

☆先日、北見望が丘教会の安部一徳牧師から昨夏の台風による被害について聞きました。「台風で教会・幼稚園の天井が破損したが、北見周辺では業者が対応に追われて手が回らず、いまだに修理工事の見つもりもとれない。そのため保険金の請求すらできない」というのです。ふと思いついて、北部教会の会堂建築を手がけたEさんに相談したところ、今月中に北見まで見に行ってくれることになりました。安部牧師の話では、かなり大がかりな工事になるようで、これからの支援を考えていく必要がありそうです。
☆仙台の被災者支援センター「エマオ」の働きをずっと担ってこられた佐藤真史牧師御一家から教会宛に年賀状が届いています。「4月から熊本・A教会に赴任する予定です」とありました。仙台での経験が、やはり地震の痛みを負う熊本の地で活かされることでしょう。教会では幼稚園の働きにも携わることになるとのこと。新たな地での活躍が支えられるよう祈ります。
☆例年のように、太平子どもの家のおもちつきが行われました。久しぶりのこどもたちも何人も訪ねてきてくれました。あちこちで「大きくなったね」「いま何年生?」「おぼえてる?」といった会話が。照れくさそうな子もいれば、勝手知った場所とばかりに遊びまわる子、「ごぶさたしてます」と大人びた子も。こどもたちにとって、なつかしく、そして今もあたたかく受けとめてくれる場所であり続けたいと思います。そのような場があると信じることが、いつか人生の荒波にあうときも支えとなることでしょう。

2017年1月21日 (土)

1月15日 「だれの仲間か」

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(マルコ3章20~22節)
 主イエスの福音の宣教には、癒しがともなっていました。「神の国」「神の支配」の到来が、病の癒しや悪霊からの解放によって示されたのです。当時の強圧的な支配の下、弱い者はいっそう苦しみ、生きていくつらさや理不尽な重荷に耐え切れずに精神のバランスを崩す人々も多かったでしょう。彼らは「悪霊に取り付かれた」としてさらに退けられてしまいます。主イエスはそうした人々を癒し、多くの人々が救いを求めてその周りに集りました。
 しかし、その働きを受け入れられない人々もいました。主イエスの身内は心配し、おそれて取り押さえにきました。また、権威ある律法学者たちは、主イエスが悪霊の力を用いていると根拠のない中傷をいいふらしました。
 主イエスは、そのような中傷に対し、きっぱりと、悪霊と闘う意志と使命を表明しました。この世に住み着き、人々を我が物顔に支配する強大な悪の力に挑み、その支配のもとにある人々を奪い返す、というのです(27節)。「福音を宣べ伝える」つまり「神の国、神の支配を証する」とは、そのように悪への挑戦を含むものでした。
 福音を宣べ伝え、悪に挑戦することは、しかしある人々との決別・決裂をも意味しました。主イエスは、律法学者たちとの対立を深めたばかりでなく、身内の人々にも厳しいことばで応えます。
 いっぽうで、救いを求めてご自分の周りに集った人々をさして「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟姉妹、また母なのだ」と言います。悪の力からの解放を切実に願って神の支配に身を寄せてきた人々こそ、ご自分の身内、仲間であるというのです。
 今、主イエス・キリストはだれの仲間としておいでになるでしょうか。悪が力をふるう世にあって、わたしたちはだれの仲間なのでしょうか。

2017年1月15日 (日)

北部日記 1月15日

☆先週礼拝後、いつものように皆がうどんを食べていると、台所のほうから「ええ~っ!」とただならぬ叫び声。何事かと思ったら、皿洗いを手伝っていた*山さんが、「じつは、年末に**河さんと入籍しました」と電撃告白、おめでたい知らせが嵐のようにかけめぐりました。若いお二人のこれからに祝福を祈ります。
☆北海教区の年頭修養会が定山渓で行われました。こどもたちを含めた参加者は最終的に377名と発表されました。そのうち北部教会の関係者は23名。倶知安伝道所に出席している太*さんもご夫妻で参加、北部教会の人たちと久しぶりの話に花が咲いていました。もちろん、他の教会の人たちとも、年に一度の出会いと語らいを楽しむ姿があちこちに。教会の交わりの楽しさ、うれしさ、ゆたかさを味わうひとときでした。
☆年頭修養会で、恒例の80歳・20歳・新生児の祝福がありました。北部教会からは、80歳になられた*島さん、20歳の*谷さんのお名前が。また、やはり恒例の『教区通信』の懸賞クイズの当選発表。実は今回はじめて抽選の係をつとめました。でも、当選者に北部教会関係者が何人もいたのは、わざとではありません!
☆先月、財務委員会から教会会計の現状の報告がなされ、あわせてアピールがありました。「誘い合わせて礼拝に出席しましょう」「礼拝献金の際、あとワンコインを加えましょう」「会堂に献金箱を設置するので、随時の献金をしましょう」との3点です。3点目の「献金箱」ですが、どこにどんな箱を設置するのか、管理はどうしたらいいか等、具体的なことがまだ決まっていません。実現までもう少しお待ちください。

2017年1月14日 (土)

1月8日 「友の信仰」

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。   (マルコ2章1~5節)
 主イエスが話をしている最中、とつぜん天井が破られて病人がつりおろされてきました。大騒ぎの中、主イエスは、病人に「あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。
 長年の病と、それに関連してさまざまな人生の苦悩を負ってきた方が、ふと「私が罪深いから、神さまに裁かれてばちがあたったのかと思ってしまいます」とつぶやかれました。病の苦しみは、身体の痛みや不自由だけではありません。自分が悪いのではないか、自分が生きてきたことはけっきょく罪だった、神さまから人生に失格をいいわたされた、自分の人生はだめだったのだ、生きていてもしかたがない、という深い絶望がもたらされます。
 しかし、主イエスは病人にきっぱりと「罪は赦される」と宣言されました。「あなたの人生はけっしてだめではない、あなたにはこれからがある、これから生きていっていいのだ」という宣言です。そして主イエスは、病を癒し、そのことばを現実のものとしてくださったのでした。
主イエスは、病人を連れてきた人々の信仰をみて、罪の赦しを宣言されました。「イエスさまならこの人をなんとかしてくださる」という一途な思いで連れてきた友の心を、信仰として受けとめ、かえりみてくださったのです。
 自分自身は絶望して動けず、主のもとに近づくことさえできなくても、そんな自分を主イエス・キリストはなんとかしてくださると願い信じる友がいて、そういう友の信仰を、主がかえりみてくださるとしたら、どうでしょうか。わたしたちは、そんなふうに互いのためにとりなし、祈り、ささえあう交わりの中にあります。それが教会です。友の信仰のゆえに、これからなお生きる希望が主から与えられるのです。そして誰よりも主イエス・キリストご自身が、そのような友となってくださっているのです。

2017年1月 8日 (日)

北部日記 1月8日

 この年の初めは天候も穏やかで、少しのんびり過ごしました。
 3年前のクリスマス、母が倒れて緊急手術をしました。幸い今は回復し、両親とも80歳を超えてまあまあ元気にすごしています。
 このごろ、同年輩の人たちと、高齢となった身内の話をすることが多くなってきました。あちこち弱って介護が必要になったり、元気だと思っていたのに急に入院したり、自宅での生活が難しくなって施設を探したりと、それぞれの課題を聞きながら、「我々も、そういう心配をする『年頃』だよね」と苦笑い。これから、そういう「年頃」の仲間がどんどん増えていく時代です。
 先日のクリスマス礼拝の後、病床聖餐式に赴きました。入院中の坂井さん、中田さん、施設にいる吉田さん、一方井さん、駒形さんをそれぞれお訪ねしたのですが、多くは高齢の方々です。北部教会も40周年を過ぎ、信徒のそれぞれも齢を重ね、以前のようには礼拝に足を運ぶことが難しくなってきた方々が増えてきています。北部教会全体もまた、「年頃」となってきたのでしょう。
 聖書でも、またそれに限らず、「長寿」は祝福そのものと受けとめられてきました。高齢に伴う心配ごとはそれとして、まずは命の祝福を共に喜び、そのうえで、心配を分かち合ったり、知恵を交換したり、励ましあったりする交わりが、いっそう深まっていけば、新しい年ごとに言いかわす「おめでとう」も、さらに味わい深くなるでしょう。

2017年1月 7日 (土)

1月1日 「ついて来なさい」 新年礼拝

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。    (マルコ1章16~20節)
 マルコ福音書は、主イエスが現われて活動を始めたその最初に、弟子たちを招く場面を記します。主は、ガリラヤ湖の漁師たちに「ついて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけたのでした。
 「人間を取る漁師」とは、直訳すれば「人間の漁師」です。弟子たちは、やがて主イエスの十字架と復活の後、世の海原に漕ぎ出し、多くの人を主のもとに集める役割を果たすことになります。彼らはまさしく「人間の漁師」となってくことになるのです。
 声をかけられた漁師たちは、網を捨て、父を置いて主イエスについていきました。「捨て」「置いて」は、原文は同じ単語です。主イエスについていって人間の漁師になるためには、職業や家族をも捨てる、重大な覚悟が求められるということなのでしょうか。
 しかし、「人間の漁師」と言われたことの意味を、このとき彼らが理解していたとは思えません。「人間の漁師」の意味をわかった上で「人間の漁師になりたい」と願って主イエスについていったわけではないでしょう。
 だいじなのはむしろ前半の「わたしについて来なさい」というよびかけです。主イエスに出会い、こうよびかけられたとき、漁師たちは、なぜか心動かされ、これまでだいじに抱えてきた仕事や家族を思わずいったん脇において、この方についていってしまったのではないでしょうか。主イエスという方は、それほどまでに魅力的な方だったのだと思うのです。
だいじなのは、主イエスという人格と出会い、ついて行くことです。主イエス・キリストご自身が、神からのメッセージ、福音なのです。「これまでの自分と違う、なにか新しいものにされるのだとしてもかまわない、この方についていこう」という信頼をもって、新しい年の歩みを踏み出しましょう。

2017年1月 1日 (日)

北部日記 1月1日

クリスマス、教会に届いたお便りの一部を紹介します。
「昔、楽しかった北部教会の日々をなつかしく思い出しています。皆様に平安を」(榎本)
「札幌北部教会の皆様、今年はどのようなクリスマス行事を計画されていますか。良きクリスマスをお迎えください。」(U)
「クリスマスも近く、皆様の沢山のはげましの言葉、本当に涙を流しておりました事を御伝え致します。本当に有難うございました。」(K)
「美味しいパウンドケーキありがとうございます。皆でありがたくいただきました。」(会津放射能情報センター 一同)
「平素より大船渡教会のためにお祈りとお支えありがとうございます。牧師が陸前高田市で作っているりんごを送らせていただきました。農家の高齢化と東日本大震災で作るのが困難になったりんごの木を教会員と借り受け作りました。沿岸部でリンゴを作っている地域は珍しく『潮風リンゴ』の名前でアピールしています。素人が作りましたのでご笑納いただけましたら幸いです。素晴らしいクリスマスをお迎えください」(大船渡教会)
「北部教会のさまざまなアクティブな活動に励まされ学ばされています。これからも一緒に歩めますように。」(いずみ愛泉教会)
「いつもお祈り下さりありがとうございます。今年は40周年もあり多く北部に行くことができ嬉しい年でした。来年も主の平和を実現する元気な北部教会でありますように。」(S)
 40周年を越え、新しい年に踏み出します。主にあって与えられてきた多くのつながりの恵みを味わい感謝して、共に歩んでいきましょう。

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