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2017年1月 7日 (土)

1月1日 「ついて来なさい」 新年礼拝

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。    (マルコ1章16~20節)
 マルコ福音書は、主イエスが現われて活動を始めたその最初に、弟子たちを招く場面を記します。主は、ガリラヤ湖の漁師たちに「ついて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけたのでした。
 「人間を取る漁師」とは、直訳すれば「人間の漁師」です。弟子たちは、やがて主イエスの十字架と復活の後、世の海原に漕ぎ出し、多くの人を主のもとに集める役割を果たすことになります。彼らはまさしく「人間の漁師」となってくことになるのです。
 声をかけられた漁師たちは、網を捨て、父を置いて主イエスについていきました。「捨て」「置いて」は、原文は同じ単語です。主イエスについていって人間の漁師になるためには、職業や家族をも捨てる、重大な覚悟が求められるということなのでしょうか。
 しかし、「人間の漁師」と言われたことの意味を、このとき彼らが理解していたとは思えません。「人間の漁師」の意味をわかった上で「人間の漁師になりたい」と願って主イエスについていったわけではないでしょう。
 だいじなのはむしろ前半の「わたしについて来なさい」というよびかけです。主イエスに出会い、こうよびかけられたとき、漁師たちは、なぜか心動かされ、これまでだいじに抱えてきた仕事や家族を思わずいったん脇において、この方についていってしまったのではないでしょうか。主イエスという方は、それほどまでに魅力的な方だったのだと思うのです。
だいじなのは、主イエスという人格と出会い、ついて行くことです。主イエス・キリストご自身が、神からのメッセージ、福音なのです。「これまでの自分と違う、なにか新しいものにされるのだとしてもかまわない、この方についていこう」という信頼をもって、新しい年の歩みを踏み出しましょう。

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