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2017年3月11日 (土)

3月5日 「仕えるために」

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (マルコ10章42~45節)

 あんなにも人に尽くし神を愛した方が、なぜ十字架でむざんにも殺されなければならなかったのか、弟子たちにとっては深刻な問いとなりました。そしてようやく、「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきた」とのことばに思い至ったのです。人のために尽くしたのにもかかわらず十字架で殺されてしまった、というのではなく、人に仕えて生きたそのきわみ、たどりつくところこそ十字架だったのです。
 そういう生き方は、この世の価値観とはまったく異なります。皆に仕え、すべての人の僕として生きることこそ、ほんとうに価値ある生き方であることを、十字架にいたる主イエスの生涯は示しているのです。
 しかし、そんな生き方が、わたしたちにできるでしょうか。とても無理だとしりごみしてしまいます。
 ここでの主イエスのことばには前段があります。主イエスが受難を予告したのに、弟子たちはそれをまったく理解せず、なかでもヤコブとヨハネの兄弟は、主イエスが栄光を受けるときにはそのかたわらにおいてほしいと願い出たのです。意味もわからず、主の苦難の杯をいっしょに飲むことができるといいきる二人でした。主イエスは、二人が確かに苦難にあずかること、そうするのは神が定めることであることを告げました。
 十字架をまったく理解していなかった二人は、この後それぞれに主の苦難の道に従う歩みをたどることになりました。神は、この二人のみならず、わたしたちをも主の苦しみにあずからせることがおできになるはずです。
もしかしたら、すでにそういう苦しみにあずかっているのかもしれません。まわりの人のために労苦を負い、苦悩することがあります。人に仕えた主の十字架のかたわらに、わたしたち自身を見出すかもしれません。

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