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2017年3月 4日 (土)

2月26日 「信仰のない時代」

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」  (マルコ9章14~24節)
 悪霊に取り付かれた子を、弟子たちは救うことができませんでした。「おできになるなら助けてください」と願う父親に、主イエスはきっとなって「『できれば』だと!」とむきなおり、「信じるものには何でもできる」と宣言します。父親はとっさに「信じます、信仰のない私をお助けください」と答えます。一連の緊迫したやりとりに、あきらめて信じなかった父親の心の根底に迫る主イエスの迫力が伝わってきます。それによって父親の姿勢がうち砕かれ、変えられます。そのとき霊は追い出されて子も父も救われたのです。
 それにしても、弟子たちにはなぜ、できなかったのでしょう。主イエスが高いところに行って不在の間、地上に取り残され、人々の期待に応えることができないでいる、非力で情けない弟子たちの姿に、教会の現実がかさなります。いま地上に残されている教会は、現実の世界の問題を解決するにはあまりに力乏しく、なすすべもないありさまです。「お弟子たちには、できませんでした」との批判の前に、うなだれるほかありません。
 しかし、主は、そのように求める人々のことを「なんと信仰のない時代なのか」と嘆くのです。世の人々は、問題の解決は求めても、信仰を求めようとはしません。関心があるのは「できるかどうか」「やってくれるかどうか」です。自分たち自身のありかたをかえりみ、問いなおそうとはしていません。
 あの父親もそういう信仰のない時代の一人でした。しかし、主イエスに迫られ、信じることを促されていったのです。
その後、主イエスは弟子たちに、祈ることを促します(28~29節)。何と祈ったらよいのでしょうか。「信仰のないこの時代に、それでも主よ、来てください」と祈るべきではないでしょうか。主イエス・キリストご自身との出会いこそが、信仰をもたらし、救いをもたらすのです。

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