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2017年4月15日 (土)

4月9日 「十字架の屈辱」

 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。(マルコ15章16~21節)  
 十字架は、ローマで行われた残虐な処刑の道具です。奴隷や支配下の異民族の反逆者に対する極刑として行われました。死の苦しみを長時間さらしものにし、死体はそのまま放置されました。主イエスは、このむごたらしく悲惨な十字架によって死なれたのです。
 しかし、聖書は、主の十字架の死に際し、肉体の苦痛よりもむしろ、主がこうむった侮辱と屈辱をくわしく記しています。死刑の判決を受けてからその死まで、主はなぶりものにされ、唾をかけられ、なぐりつけられ、からかわれ、はずかしめられました。十字架の苦難とは、人間として扱われないという屈辱でした。
 人が人として扱われない屈辱は、けっして過去のものではありません。戦争などの極限状況で、人が人として扱われないことはいつでも起こりえます。しかし、もっと深刻なのは、今日のわたしたちの周囲に、巧妙に、日常的に、徹底的に、そういう状況が広まっていることです。
 主イエスも、人間扱いされない屈辱の中で殺されていきました。十字架を仰ぐとき、それが屈辱のしるしであることを忘れてはならないのです。
 屈辱のしるしの十字架をかつぐ主イエスのかたわらに登場するのがキレネ人シモンです。たまたま主イエスに行き会ったばっかりに、十字架を担い屈辱を共に受けたシモンの姿に、後の教会は、みずからを重ねて理解するようになりました。
 教会は、屈辱のしるしである十字架を掲げます。主イエス・キリストの十字架の屈辱を、みずからのものとして担い、主と共に屈辱をうけるしるしです。人が人として扱われない屈辱を、わたしたちも共に負わされるものとなるでしょうか。

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