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2017年5月27日 (土)

5月21日 「家庭と教会」

だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。 (テモテ一 3章2~7節)
 テモテ一3章には、教会のつとめにあたる者の資質・条件について記されています。「監督」とは、教会の働き全体を管理し、とくに教えについて責任を負うつとめであったようです。監督にふさわしい人の条件として、さまざまな資質の中でもとくに家庭人としてのありかたが挙げられていることが注目されます。「監督」が必ずしも今の牧師にあたるわけではありませんが、ここに挙げられた資質・条件は、しばしば今日の牧師やその家族に重くのしかかってきます。
 現実には「非のうちどころのない」牧師など、めったにいません。どの牧師も、自らをかえりみて、さまざまな過ちや失敗の痛みにうなだれるほかないでしょう。とくに5節は、家庭とのかかわりで痛みを覚える牧師にはいっそうつらくのしかかります。牧師がその家庭で評価されるとしたら、牧師本人だけでなく、その家族もまた重いプレッシャーを受けてしまいます。
 しかし、「家庭を治める」とは、「自分の家庭を世話し、心配り、労する」という意味であり、それは当然、家庭のために心痛め、苦悩し、重荷を負う」ことを含むでしょう。5節のことばは、「自分の家庭のために労り、心砕き、大切にし、愛する人は、きっと教会のために労し、心痛め、苦悩し、愛することができる」という意味に受けとめていいのではないでしょうか。
 それは牧師に限りません。家庭のために苦労し、それでも愛することを知る人は、教会を愛することができるでしょう。
 15節では、教会のことを「神の家」と表現しています。教会は、神が治める家庭です。神ご自身が、わたしたちのために心砕き、悩み、労苦してくださいます。わたしたちが非のうちどころのないよい子ではなくても、それを従順な者に育ててくださるに違いありません。

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