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2017年5月20日 (土)

5月14日 「祈るつとめ」

 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。 (テモテ一 2:1~8)
 この手紙の2章8節以下には男女の役割について偏見ともいえる見方が記されています。それはこの手紙の成り立ちにもかかわっているようです。
 主イエスの周り、あるいはごく初期の教会では、多くの女性たちがだいじな役割を担って活躍していました。それは当時の社会にあってはショッキングなほど新しいことでした。しかし、時代が下るにつれ、その衝撃が薄れ当時の一般的な男女観が影響を及ぼすようになってきます。「牧会書簡」はそのような時代に記されたと考えられます。ですから、これらの見方を今の時代の教会にそのままあてはめることはできないでしょう。聖書のことばは、文字通り受けとめるより真意を尋ねもとめなければなりません。
 それにしても、なぜ「男は・・・祈ること」(8節)とされているのでしょう。女は祈らなくてもいいのでしょうか。
 2章1節以下には、人々のために祈り、とりなすよう勧められています。他者のために祈るのは、祭司のつとめであり、祭司は男とされていました。つまり、8節で言われているのは、教会には、またそのすべての信徒には、祭司として他者のために祈るつとめがある、ということでしょう。
 わたしたちの教会でも、礼拝や祈祷会などで祈る機会には、他の教会、地域の人々、この世界のために祈ることをこころがけています。プロテスタント教会は「万人祭司」といって、教会のすべての信徒に、他者のためにとりなし祈る祭司のつとめがあると理解してきました。
他者のために祈る、とは、つまり、他者に関心をよせるということです。他の人々に心をよせ、その課題を覚え、祈ることは、隣人への開かれた心とかかわりを導きます。他者を覚えて祈ることによって、わたしたちは共に生きるものとされるのです。

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