« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

2017年6月

2017年6月25日 (日)

北部日記 6月25日

 こあら会で、いちご狩り遠足に行ってきました。毎年訪れる農園では、鈴なりのいちごを食べ放題。いつも楽しみにしています。
 ところが今年は天候不順で不作だそうで、あらかじめ予約の入っていた団体以外はしばらく受け入れを中止とのこと。「太平子どもの家」は予約していたので大丈夫。いちごも、確かに実のつきぐあいは少なめで、色づきもよくないようでしたが、粒はむしろ大きく、食べてみると甘さもじゅうぶん、大満足でした。
 畑に入る前に、いつも農園主の方からいちごの取り方の説明があるのですが、今年は珍しく、「いちごは前の年の夏に苗を植えて、いっしょうけんめい育て、収穫できるのは一ヶ月だけなんです。だいじに取ってください」と、苦労話がちらり。今年の不作はよほどこたえているのだろうかと、ちょっと心配になりました。
 先日、東京のまんなかの教会を訪れました。「花の日」の礼拝でこどもたちに「野の花」のお話をしようとしたけれど、「野の花」がどこにもない、とCSの先生が嘆いていました。
 自然のふるまいに右往左往する暮らしと、自然のものからはるかに隔たった生活とがあることに、考えさせられます。しかし、実は、どんな大都会の生活も、ほんとうは自然から隔たっているわけではありません。食べ物も水も、過ごしている環境も、生きるのに必要なものはやはり自然からのものです。自然が見えなくなると、人間のわきまえるべき謙虚さが忘れられがちです。そのことがむしろ恐ろしくも思えます。

2017年6月24日 (土)

6月18日 「もうひとつの家族」

老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。(テモテ一 5章1~3節)

 若い牧会者テモテは、年長の信徒との関係に苦労することがあったのでしょうか。1節に「老人を𠮟ってはなりません」とあります。「𠮟る」とは、「非難する」「きつくあたる」という意味で、厳しく対決する姿勢を示します。「父親と思って諭しなさい」の「諭す」は、「パラカレオー」という語です。聖書では、聖霊が、かばい、促し、導くことを表現するのにも使われています。よりそい、支える姿勢をあらわすといえるでしょう。
 私たちの教会でも、高齢に伴うさまざまな課題が目立つようになってきています。年配者に関わるとき、注意したり、𠮟ったり、とがめたりして対決するのではなく、よりそう姿勢が促されています。
 この手紙にはまた、当時の教会が具体的に高齢の仲間たちを支えていたことが記されています。「やもめを大事にしてあげなさい(3節)」とありますが、「大事にする」とは、尊重し敬う姿勢とともに、具体的に世話をして支えることも含んでいます。当時の教会は、身寄りのない、弱い立場の「やもめ」たちの生活の実際を支えることに取り組んでいたのです。
 教会は「神の家族」といわれます。ともするとそれは、ただ精神的な意味に留まってしまいがちですが、最初の教会は、実際の家族のように経済生活をも支えようとしていました。その点では、今の私たちの先を行っているといえます。教会の交わりは、実際の家族にとってかわるものではありませんが、家族の支えがない人にとっての、もうひとつの家族として支えあおうとしていたのでした。
 教会は、神の家族であり、わたしたちのもうひとつの家族です。私たちによりそってくださる聖霊による交わりを深め、高齢の人、身寄りがない人、弱い立場に置かれた人々を、大事にし、よりそうことを目指しましょう。

2017年6月18日 (日)

北部日記 6月18日

☆この春まで北部教会に出席されていたKさんの結婚式に出席してきました。見るからに幸せな二人を囲んで、おおぜいの出席者みんなで喜びを共にしました。
披露宴のテーブルには、出席者それぞれへのメッセージカードがおいてあります。見ると「北海教区の連帯があったからこそ、今日という日を迎えることができたと思っています。北部教会の皆様にもよろしくお伝えください」とありました。札幌地区の教会の交わりの中で出会った二人です。これからも教会の喜びを深めていってくださるでしょう。
☆何年ぶりかで両親の家で過ごす機会を与えられました。二人とも80歳を過ぎ、健康の不安も抱えていますが、老いの衰えをじょうずに受けとめてそれなりのペースで穏やかに暮らしているようすに、ちょっとほっとして弟妹たちにも伝えました。二人のこんな日々が少しでも長く続くよう願わずにはいられません。
☆国会で「共謀罪法案」が成立してしまいました。なりふりかまわない強引な国会運営は、一面では政権のあせりの現れなのでしょうか。法案に賛成票を投じた議員たちは、いつの日か、その法が自分たちに対しても牙をむく可能性を考えはしなかったのでしょうか。じわじわと厳しい試練が身近に迫っている気配を感じずにはいられません。
しかし、考えてみれば、聖書の文書のほとんどは、そうした厳しい試練の状況の中で記されたものです。聖書のことばが、いっそうの重さと真実をもってわたしたちの前にその真理を示してくることでしょう。

2017年6月11日 (日)

北部日記 6月11日

 今年度の教会の課題に、「高齢に伴う課題」「他教会との交流・協力」を挙げています。役員会やいろいろな場で、これらの課題にかかわる相談がなされています。
 先日は女性の会で認知症について学びました。伝道委員会では、今年度の「ほくぶカフェ」の企画を考えていますが、やはり高齢者の生活にかかわるテーマが候補に挙がっています。先週の役員会では、礼拝に来られなくても教会の交わりにつながるにはどうしたらいいか、少し相談しました。高齢に伴う課題は、社会全体が向き合ってきている大きな重いテーマですが、教会でも、教会らしく、いっしょに考え、話しあっていけたらと思います。
 他教会との交流として、昨年来、「中標津伝道所を訪ねたい」という声が挙がっています。ちょうど今、札幌地区青年協議会でも、この秋に中標津伝道所への訪問を企画しています。青年たちはお金を出し合ってレンタカーで行くことを考えていますが、もし北部教会から誰かが車を出していっしょに行ってくれたら、そのぶん青年たちの負担も少なくなるのでは、と役員会で話題になりました。
 札幌元町教会宣教協力募金にも継続してかかわり、こんどは高浜梨紗牧師を招きたいという声も挙がっています。
 また、これから諸教会の献堂式や就任式が続きます。7月には浦河伝道所が教会となる「教会設立式」も予定されています。いろいろな機会に足を運び、喜びと感謝を共にしましょう。

2017年6月10日 (土)

6月4日ペンテコステ礼拝 「神の力に支えられて」

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(テモテ二 1章7~14節)

 主イエスが捕えられたときには逃げ去り、よみがえった主に出会っても疑い、主が天に上った後は自分たちだけで部屋に閉じこもっていた弟子たちが、ペンテコステの日を境に、大胆に、確信をもって、世界にむけて宣教の働きに向かいます。これは確かにふしぎなことです。それこそが聖霊、神の力がもたらしたことでした。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった(7節)」のです。それによって教会の歩みが始まっていきました。
 41年前、札幌北部伝道所が開設されたのも、この神の力によるふしぎでした。これからも、おくびょうにとりつかれることなく、力と愛と思慮分別の霊を信じ、神の力に支えられて前へ進む思いを新たにしましょう。
 ところで、今わたしたちは何に対しておくびょうになるというのでしょう。
 たしかに、教会は今、大きな問題に直面しています。高齢化や信徒数の減少、財政困難、伝道の不振などを前に、おくびょうになり、疑い深く、内に狭く閉じこもってしまいそうです。
 それだけでなく、時代の困難に迫られています。「共謀罪」「天皇代替わり」によって苦難がもたらされるでしょう。おくびょうに陥り、信仰が動揺し、閉鎖的になってしまうのでしょうか。
 「神の力に支えられて、・・・苦しみを忍んでください(8節)」と促されます。ペンテコステの後、教会は何もかも順調だったのではありません。苦難に直面し、失敗や挫折を重ね、それでも教会の歩みはやむことがありませんでした。それこそが神の力に支えられているしるしだったのです。
 わたしたちも「自分が信頼している方を知って(12節)」います。「わたしたちの内に住まわれる聖霊(14)」を信じ、勇気をもって歩みましょう。
 

2017年6月 4日 (日)

北部日記 6月4日

☆先週はバザーでした。前日、各地の小学校の運動会が、あいにくの雨でどこも中止。バザー当日が運動会と重なることになり、「お客さんも、お手伝いの人手も少なくなるね」と覚悟しました。たしかに、お客さんはいつもほど多くはありませんでしたが、そのぶん、いつもより落ち着いて対応ができ、売り子さんたちも交替で買い物を楽しむことができたようです。近年のバザーは、北部教会だけでなく、子どもの家の関係者や、他教会そのほかの出店者の方々との交流を楽しむ場でもあります。そうしたつながりをゆっくり味わい楽しむ機会となりました。
☆先日、北星学園余市高校の就任式に招かれて出席してきました。キリスト教に基づくユニークな教育で知られる北星余市高ですが、報じられているように、経営困難に直面し、これからの入学者数しだいで閉校の可能性も抱えています。新校長の就任に際しても、単純に「おめでとう」とは言えない重たさがありました。地元の余市教会は、小西陽祐牧師が率先して北星余市高の存続のためにさまざまな協力をしてきています。就任式で、高校の関係者が、「小西牧師が『キリスト教学校を、教会が支えないで誰が支えるのか』と言ってくれることに励まされている」と述べていました。困難な時代だからこそ、つながり、支えあうことの意味がいっそう深まっています。
☆きょうはペンテコステ、また教会創立記念礼拝です。私たちをふしぎにもつないでくださるのが聖霊の働きです。北部教会も、たくさんのつながりに生かされ、はぐくまれてきた歩みを思うのです。

2017年6月 3日 (土)

5月28日 「恵みの賜物」

これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。 (テモテ一 4章11~16節)

 テモテはパウロから信頼されて教会のつとめにあたっていました。しかし、年が若いということで周囲から軽く見られ、そのために自信を失いがちだったようです。そんなテモテへの励ましとして、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」と記されています。
 教会の牧師を任命する際、所定の手続きや試験の後、頭に手を置いて祈る「按手」が行われます。旧約聖書の時代から、祝福や任命のしるしとして頭に手を置くことが行われてきました。14節にも「手を置く」ことがだいじなしるしとして触れられています。教会を代表する長老たちが手を置いて教会のつとめに任命したのだ、あなたにはすでにつとめを果たすのに必要な恵みの賜物が与えられているのだ、と励ましているのです。
 「恵みの賜物」によってなすべきつとめとして、「聖書の朗読と勧めと教え」(13節)が挙げられています。聖書を読み、それを解き明かして勧め教えることは、牧師として専念すべきつとめです。私自身、「若いうちは、いっしょうけんめい聖書を語るといい」と勧められたことを思い出します。
 しかし、それは牧師だけのつとめでしょうか。いま、牧師のいない礼拝で信徒が語る機会も増えています。自分の体験の証だけでなく、聖書を解き明かして語ることも求められています。実は、信徒になる洗礼の儀式の中でも「手を置く」ことが行われています。信徒もまたそれぞれに、聖書を語る恵みの賜物が与えられているのではないでしょうか。
日本のプロテスタント教会の源流となった、札幌のクラーク博士、横浜の宣教医ヘボン、熊本の教師ジェーンズは、いずれも牧師ではありませんでした。信徒のうちにある「恵みの賜物を軽んじてはなりません」。聖書を語ることに努めるとき、その「言葉を聞く人々を救うことになります」。

 

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »