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2017年8月11日 (金)

8月6日 平和聖日 「つながれていない」

この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、
キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、
キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
(テモテ二 2章8~13節)

 先日、いわゆる「共謀罪法案」が成立しました。行為がなくても、語りあった「ことば」をとがめて罪とする「共謀罪」は、かつての治安維持法と共通する危険性があります。三浦綾子さんの小説『銃口』は、治安維持法による弾圧事件「北海道つづり方教育事件」を題材としたものです。ことばを書き、あらわし、伝えることが罪とされた事件です。
 ことばをとりしまり、とがめ、罰することは、ことばによる思想・言論・表現・出版の自由を脅かすものです。とりわけ、ことばによって立つ私たちの信仰にとっては大きな脅威です。実際、治安維持法や関連法により、札幌新生教会の伊藤馨牧師の投獄、無教会の浅見仙作氏の逮捕、札幌北一条教会の小野村林蔵牧師の逮捕など、信仰のことばが問題とされた事件が札幌でもいくつも起きています。
 ことばがとがめられるとき、口を閉ざし沈黙するほかないのでしょうか。
 使徒パウロも、福音を語ったためにしばしば捕らえられ、鎖につながれました。「しかし、神の言葉はつながれていません(9節)」と記されています。どういう意味でしょうか。
 ひとつには、パウロをつないでも、彼が語ることをやめさせることはできなかった、ということでしょう(使徒26章)。また、彼が活動できなくても、他の人々が福音をかえって熱心に語ることにもなりました(フィリピ1:14以下)。神のことばの力は、人間の力でおしとどめたり、妨げたり、力をそいだりはできないのです。
 再びことばをつなごうとする企てが迫っているでしょうか。あるいはもうすでに私たちは見えない力にしばられつながれかけているのでしょうか。それでも、つながれていない、生ける神のことば、キリストを信じましょう。

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