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2017年9月

2017年9月30日 (土)

9月24日 「苦悩の友」 

サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。 (ヨブ2章7~13節)

 正しい人ヨブに突然災難がふりかかります。家畜や子どもたちを失い、自分自身も全身を皮膚病におかされます。これらは、神にそむいた者にもたらされる災いとして律法に記されています(申命記28章31節以下)。ヨブは神にそむいたというのでしょうか。
 妻からも冷ややかなことばを向けられたヨブのところに友人たちが訪ねてきます。ヨブの惨状にことばを失い、共に座って嘆くばかりでした。ようやく口を開いたヨブは、生まれてこなければよかった、と絶望を訴えます(3:3,11)。驚いた友人たちがたしなめますが、ヨブはなお、死ぬことを願います(6:8~9)。そして、慰めに来たはずの友人たちとの間で、激しい口論になるのです。災いを神からのものと受けとめた(1:21、2:10)はずのヨブが、なぜ急に態度を変えて絶望を口にするようになったのでしょう。
 ヨブにむけた妻のことばは「神を讃えて死になさい(9節)」と訳せます。彼女は、財産とこどもを失ってヨブ以上の痛みと悲しをこうむったはずです。きれいごとをいうばかりで、苦悩を口にしないヨブに、腹立たしく、もどかしく思ったのではないでしょうか。妻のことばはヨブに刺さったでしょう。
 そこにやってきて寄り添ってくれた友にむかってヨブは初めて率直に思いをぶちまけます。ヨブと友人との長く厳しい議論も、互いの信頼が背景にあったはずです。率直にやりあえる友の存在は、ヨブの幸いでした。
 ヨブ記の結末で、神は友人たちとヨブとの和解をもとめます。それによってヨブには苦難にまさる祝福が与えられました。苦悩の中、共にある友の存在が、ヨブと妻に新しい祝福を導いたのです。わたしたちの教会の交わりも、互いの「苦悩の友」でありたいと思います。

2017年9月24日 (日)

北部日記 9月24日

 先週の日曜日の午後、札幌元町教会のバザーに足を運んでみました。他の教会のバザーを訪れるのは久しぶり。何がどんなふうに売られているのか、興味しんしん。
 会堂の中に入ってびっくり。まんなかに山のように衣類が積み上げられています。周りのテーブルにも、靴やかばん、食器や文具などの雑貨。「教会と、地域との長い間の関係があるので、呼びかけると友愛品がたくさん集まるんです。売り子さんも地域の方々がおおぜい手伝ってくれています」と高濱牧師。
 そうしていると、「バザー終了まで残り30分!今から『詰め放題タイム』!!」とアナウンス。ビニール袋を300円で買い、そこに何でも詰め放題。ちょっと試してみるつもりが、気がついたら袋いっぱい品物を詰め込んでいました。お買い得だったのか、売れ残りを引取ったのか・・・。
 来週は新発寒教会でバザー。あえて「秋まつり」と銘うって地域に呼びかけています。新発寒教会では、この秋、「教会読書会」「教会文化祭」「献堂一年記念講演会」「バイオリンの調べとドイツの話」と、地域に向けた行事をつぎつぎ実施予定とのこと。
 今日の北部教会のバザーには、元町教会・新発寒教会のほか、東札幌教会・いのちの園・NICO葉夢・フェアトレード、そしてもちろん太平子どもの家OB会など、さまざまな団体が出店します。 
 教会の交わりの中で、それぞれの働きと工夫、とくに地域に向けた活動について分かち合うことで、互いに励まされ力を与えられますね。

2017年9月23日 (土)

9月17日 「理由なしに」

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ1章8~12節)

 これから何回かに分けて『ヨブ記』をとりあげます。信仰にもとづく一種の文学作品で、決してわかりやすくはありませんが、かいつまんで読んでいきたいと思います。
 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と主なる神にも認められていました(8節)。ところがサタンは「利益もないのに神を敬うでしょうか」と、その信仰を疑います。「利益もないのに」とは、「理由なしに」「下心なく」という意味です。ヨブの信仰も理由がある、けっきょくは自分のためだ、というのです。
 マーク・トウェインの『人間とは何か』という短編では、人生に幻滅した老人が純真な若者に「人間の行為は、どんなに崇高な自己犠牲の行為でも、けっきょくは自分の満足のためだ」と語って聞かせます。わたしたちは、自分のためという理由なしに真実に神を畏れることができるでしょうか。
 山浦玄嗣さんは、津波に襲われた人たちに外部の人たちが「なぜこんな目にあったか」と尋ねることに憤っています。それは、「お前たちの拝んでいる神仏は見捨てたではないか。お前たちの信心はなんだったんだ。なんのために信心してきたんだ」という問いだからです。それは、「理由なしに、利益もないのに信心することはないなずだ」というサタンの問いと同じです。
 ヨブは苦難の中で神に「なぜ」と問います。しかしそれは、理由なしに信じることができるかと問われる試練でした。ヨブ記の最後では、ヨブはついに理由を問うことをやめ、理由なしに神を信じるに至ります。
 聖書はまた、理由なしに苦難をもたらす神は、理由なしに救いを与える方であることを示しています。理由なしに信じるとは、理由なしに与えられる救いを信じる促しを含んでいるのです。

2017年9月18日 (月)

ほくぶカフェ 「いかに生き、いかに備えるか」

介護はだれにとっても切実な課題。
家族の世話になる側、いずれ親の介護を担う立場、それぞれの思いを聞きます。
また高齢者の住居・施設について基本的な知識を学びます。
どなたでもおいでください。

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さとらんどでバーベキュー

札幌北部教会 教会学校(CS)
さとらんどで秋の味覚バーベキュー
実りの秋、ゆたかな恵みをいっしょに味わいましょう。


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2017年9月17日 (日)

北部日記 9月17日

 大学生になって教会学校の手伝いをするようになった頃、生徒だった女の子がいました。いつもにこにこ人なつこくおしゃべりな彼女は、元気でやんちゃな弟妹ともども、よく教会学校のスタッフの話題になっていました。やがて成長していくにつれ、彼女に軽い障がいのあることがわかってきました。上の学校には進めませんでしたが、教会が大好きで、洗礼を受け、喜んで通い続けていました。
 今も年に一、二回、彼女から電話か手紙で連絡があります。親元から自立してグループホームに住んで作業所に通っていること、妹や弟はそれぞれ家族をもって互いに仲良く行き来していること、近くの教会に通っていろいろな活動をしていることなどを伝えてきてくれていました。
 一年ほど前、「来年は札幌に行きます」と連絡がありました。作業所の団体の全国大会が札幌で開催され、それに参加するというのです。
 先週、予定通り彼女が札幌にやって来ました。全国から二千人以上が集まる大規模な大会の、1泊2日のあわただしいスケジュールのあいまに会うことができました。短い時間でも、話しているとたちまち30年以上も前の教会学校での楽しい思い出や、教会の仲間たちの顔がたくさん浮かんできます。今もかわらず人なつこく元気におしゃべりする彼女は、職場や教会で積極的に活躍しているようでした。
 「今日はありがとうございました。またね!」と明るく手をふる彼女の人生が、信仰と教会の交わりと、そして神さまご自身に支えられ守られていくことを信じて励まされたひとときでした。

2017年9月16日 (土)

9月10日 「キリストの現われ」

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。(テトス2章11~15節)

 
 有能で頼もしい伝道者テトスにあてた手紙の2章11~14節は、当時の教会で用いられていた儀式の式文か讃美歌の歌詞と考えられています。そこに記されただいじな教えを守るよう勧められています。
 11節と13節に「現れ」という語が繰り返されています。もとは「エピファネイア」という語で、キリストの「現われ」を祝う「エピファニー 公現日」の語源です。11節の「すべての人々の救いをもたらす神の恵みが現われました」とは、主イエス・キリストの生涯と、十字架と復活のできごとを通して現された神の救いのできごとを指しています。
 13節にも「キリストの栄光の現れを待ち望む」とあります。これは、いつかキリストが再びおいでになる再臨のことです。キリストの教会は、キリストがいつか再び現われてくださることを信じてきました。今の時代がどんなによこしまで苦しく悪い時代であったとしても、いつかそれは終わり、キリストの救いが完成するという、祝福に満ちた希望として「キリストの現われ」を待ち望んでいるのです。
 12節は、過去と未来の「キリストの現われ」の間のわたしたちの生き方を示しています。「思慮深く、正しく、信心深く」とありますが、それぞれ自分自身、隣人、そして神に対する姿勢を示したものだと解説している人がいます。14節も、こうした二つの「キリストの現われ」の間の生き方を、重ねて述べているようです。
 伝説では、テトスはクレタ島で教会のために働き、この地で長寿をまっとうしたといいます。テトス自身も、そしてわたしたちも、かつてのキリストの現われに支えられ、未来の現れを待ち望んで「思慮深く、正しく、信心深く」生きるよう促され、導かれているのです。

2017年9月12日 (火)

バザー

教会バザーを行います。
9月24日(日)12:30~14:30
どなたでもどうぞおいでください。
収益は「太平子どもの家」の活動のために用います。
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2017年9月10日 (日)

北部日記 9月10日

 「高齢化社会」と言われるようになってから久しくなります。キリスト教の教会も例外ではありません。かつて、キリスト教会には若者たちが集まるイメージがありました。しかし、その頃の若者たちも年を重ね、信徒の平均年齢も社会一般同様ぐっと高くなりました。私たちの教会でも、衰えを覚えたり、床についたり、施設に入ったりする人が増えてきています。また、そうした高齢の家族のお世話をする世代も広がっています。
 教会の伝道委員会では、今年の「ほくぶカフェ」の企画を進めています。10月14日(土)、介護の体験や、施設に関する情報を分かちあう内容で行う予定です。高齢化にともなう課題や、それを担う中での思いを語りあい、支えあう力になればと思います。
 介護や施設利用について具体的に相談するとき、「神愛園」は心強い存在です。半世紀前、道内のキリスト者が広く協力して高齢者のための施設の設立を呼びかけ、「神愛園」が生まれました。キリスト教信仰にもとづいて運営される施設で、私たちの教会からも何人もお世話になってきています。
 特別養護老人ホーム神愛園は、2年前、新しい建物に移りました。建築資金の一部として5年間で1億円の募金をよびかけていますが、実績は目標に届いていません。理事長の後藤学さんの名前で、あらためて諸教会に協力の呼びかけが送られました。役員会で相談し、きょうの礼拝後、皆でくわしくお話を聞こうということになりました。教会として神愛園の働きに少しでもかかわれたらと思います。

2017年9月 9日 (土)

9月3日召天者記念礼拝 「新しく生きる」

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 (テトス3章4~7節)

  『プロテスタンティズム』(深井智朗)という本を読みました。宗教改革の時代背景として、当時の人々がたえず死に直面し、「死んだ後どうなるか」が重大な関心事だった、と指摘しています。それに対しキリスト教は「永遠の命を受け継ぐ(7節)」と教えて人々の心をとらえ支えたというのです。さらにルターは聖書に基づき、永遠の命が与えられるのは人の業によらずただ神の慈しみと愛による、と断言したのでした(4~5節)。
 さて、しかし「永遠の命」とは、死んだ後だけのことでしょうか。
 5節には「この救いは・・・新たに生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」とあります。洗礼はキリストに結ばれて新たに歩みだすしるしです。それは、新しく生まれ、造り変えられることだというのです。永遠の命はここから始まっているのです。それは死んだ後だけのことではなく、生きること、生き方に関わることなのです。
 藤原亨牧師は、若い頃、絶望のなかでキリストに出会いました。ふりかえって「まさにわたしは死からよみがえって、新しい人生を歩み始めたのだ」と記しています。永遠の命とは、新しい人生を歩み始めることであり、救いの実現なのです。
 3章1~3節に、かつての生き方と新しい生き方が対比されています。簡単にいってしまえば、自分勝手な、人と隔てられた生き方から、共に生きるものへと変えられるということだと思います。
 きょう、信仰の先達とその生涯を思い起こします。それぞれ、キリストに結ばれ、新しく共に生きるものへと人生を変えられていきました。なにより教会で共に生きるものとされました。主はわたしたちもまたそのように変えることができるのです。主のみわざに信頼して歩みだしましょう。

2017年9月 3日 (日)

北部日記 9月3日

☆先週、高濱梨紗先生に北部での礼拝説教をお願いし、朝から出かけました。10時半に滝川二の坂伝道所に着き、礼拝に加えていただきました。ログハウスの会堂の中、数名でテーブルを囲んでの礼拝です。石沢陽子牧師の説教も、ちょうど自分にむけられたようなメッセージで、おだやかな、しみじみと恵みあふれるひとときでした。教会で昼食をごちそうになり(おいしいうどんでした)、美馬牛福音伝道所へ。例年行われる合同礼拝にあわせての牧師就任式に、道北地区を中心に100名近い人々が集まりました。礼拝後には場所を移して恒例のジンギスカンで祝会。たらふく満たされた日曜日でした。
☆「ミサイルが上空を通過」と警報が流れ、連日、関連のニュースが続いています。しかし、よく聞くと、ミサイルが飛んだのは550キロの高さ。ジェット機が飛ぶ高さがせいぜい10キロ、100キロを超えるともう「空」というより「宇宙」です。宇宙ステーションですら地上400キロ。それより高い宇宙をミサイルが通るからといって、電車をとめたり、地下に逃げ込んだりすることにどんな意味があるのでしょう。ただ不安と敵意をあおるような報道に動揺させられない知恵が必要です。
☆土曜日の午後、台湾基督長老教会からの訪問団が訪れました。今回は信徒が中心のグループです。北部教会の歩みや特色など少しお話ししました。「日本の教会にはなぜ青年が少ないのか」「日本の牧師にはどんなストレスがあるか」など、鋭い質問も。最後に一同ですばらしい讃美を響かせ、北部教会のために祈ってくださいました。

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