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2017年10月

2017年10月29日 (日)

北部日記 10月29日

 近年、10月31日の「ハロウィン」の行事が定着し、街は関連商品であふれています。いまやバレンタインデーより経済効果は大きいとか。
 いっぽう、この日は教会では「宗教改革記念日」とされています。ちょうど500年前の1517年10月31日、マルティン・ルターが、ローマ教皇に問いかける95か条を教会の扉に貼りだし、それがきっかけとなって大きな変革が始まったとされています。
 このふたつが同じ日付なのは、単なる偶然ではないようです。
 キリスト教が伝わる以前のヨーロッパでは、この時期に、死者の霊を迎え精霊たちをまつる祭が行われていました。やがてキリスト教会はこの習慣をとりいれて、11月1日を「諸聖人の日 (All Saints' Day)」としました。しかし、古くからの祭のならわしが、この日の前夜の「ハロウィン」の行事として残り、やがてアメリカに伝わって商業主義と結びついて20世紀中ごろからは大々的なイベントに発展してきました。
 いっぽう、教会では「諸聖人の日」が祝日として定着しましたが、ルターの時代、この日に聖人ゆかりの遺物を教会で開帳し、ごりやくを宣伝することが行われていました。ルターは、そうした信仰のありかたに疑問を突きつける「95か条」を、あえてその前日に公表したと考えられます。
 ルターがこの日「95か条」を実際に教会の扉に貼りだしたのかどうか、確かな記録はないのですが、それでも10月31日の日付を意識して何らかの形で公表されたことは確かなようです。信仰と教会とが新しくされていった、始まりの日付です。

2017年10月28日 (土)

10月22日 「神に挑む」

わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず、わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と
神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。
この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
神がその裁判官の顔を覆われたのだ。
ちがうというなら、誰がそうしたのか。
                       (ヨブ9章14~24節)

 ヨブの友人たちは「神は正しい。神は正しい人を守り、悪人を滅ぼす」と主張します。誰にも納得いくわかりやすい神の姿です。
 しかしヨブは、そんなことはない、と言いはります。「理由もなくわたしに傷を加えられる(17節)」「罪もないのに、突然、鞭打たれる(23節)」といった神のなさりようは、とうてい納得いくものではありません。それもそのはずで、神にとってヨブなどまったくとるに足りない存在です。ヨブは、「わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう(14節)」「私がよびかけても返事はなさるまい(16節)」とつぶやきます。
 友人たちが示す神は、人間にとって納得できる神であり、言い換えれば人間の理解の範囲におさまる神です。しかしヨブは、神のなさりようは人間が理解し納得できる範囲を超えていることを知っています。ヨブのほうが、神を神とし、人間を超えた絶対の存在として認め畏れているといえます。
 それでもヨブは、絶対者である神に対して黙っていません。「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と(35節)」。神は絶対だとわかっていても、なお、神に向き合い、訴え、主張します。無謀にも、神に挑むのです。
 創世記32章に、神に挑んだ人のエピソードが記されています。帰郷を目前に苦悩するヤコブは、一晩、何者かと格闘しました。ヤコブは腿を痛めますが、相手は「お前は神と闘って勝った」と祝福します。本来なら絶対者である神に挑んで勝つなどありえないことです。しかし神は、ふしぎにも人が神に挑むことをおゆるしになり、たとえ傷を負わせたとしても、勝利と祝福をお与えになることがあるのです。とるに足りないわたしたちですが、納得のいかない神に挑むことがあります。そこに、ふしぎにも祝福が与えられることがあるのです。

2017年10月22日 (日)

北部日記 10月22日

☆先週、礼拝後の壮年会の集まりで、その日の礼拝説教をめぐってそれぞれの感想などを分かち合いました。説教についてはもっと日常的に話題にしてもいいと思っています。毎週の説教の録音データが教会のパソコンに保存してあります。礼拝に欠席された方などがもっと利用しやすくできればと考えています。原稿を添えることも可能です。必要な方はまずは牧師にお申し出ください。
☆衆議院選挙の投票が行われます。めまぐるしい政党の転変に「どの党を勝たせるか」と戸惑ったり、あるいは「自分の1票では何もかわらない」とあきらめたりするでしょうか。しかし投票は、結果をもたらすための手段というよりも、むしろ、「自分はこう考える」という個人の意志の表明と考えるべきかもしれません。それは、神の前に立つひとりひとりが問われる信仰の告白にも通じる行為です。投票にもとづく民主主義の制度がキリスト教文化のヨーロッパで発達したのには理由がありそうです。自分自身の真実な1票を投じるのです。
☆札幌地区の担当で行われる2018年度の年頭修養会(2019年1月)の第一回実行委員会が開かれ、北部教会から委員として牧師と今**子さんが出席しました。まずは顔合わせをして、委員長には原和人牧師が選出されました。それから、どんな年修にしたいか、それぞれのイメージを分かち合いました。「ゆっくりできるプログラム」「講演を中心に」「元気が出るような年修を」などの声を聞きながら、これからだんだんと形にしていくことになります。

2017年10月21日 (土)

10月15日 収穫感謝日 「神の日を見る」

なぜ、全能者のもとにはさまざまな時が蓄えられていないのか。
なぜ、神を愛する者が神の日を見ることができないのか。
人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし
みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る。
乏しい人々は道から押しのけられ、この地の貧しい人々は身を隠す。
彼らは野ろばのように荒れ野に出て労し、食べ物を求め、荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。
自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ、悪人のぶどう畑で残った房を集める。
着る物もなく裸で夜を過ごし寒さを防ぐための覆いもない。
山で激しい雨にぬれても身を避ける所もなく、岩にすがる。
父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き、麦束を運びながらも自分は飢え
並び立つオリーブの間で油を搾り、搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。
町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。
             (ヨブ24章1~12節)

 災いにあったヨブに、友人たちは「神は正しい」と正論を述べます。神は正しい人を祝福し悪い者には報いて罰する。だからヨブはきっと何か罪を犯したに違いない、神の憐みにすがってゆるしてもらいなさい、と促しますのですが、ヨブは、心あたりはない、私は正しい、と言いはります。友人たちはあきれ怒ってヨブを傲慢だと非難し、ヨブもまた友人に憤ります。
 口論がエスカレートしていく中で、友人たちはくりかえし「神は正しい」と主張します。しかしヨブはそれに疑問をつきつけます。神はほんとうに正しい者を守り悪人を罰しているだろうか、現実はそうなっていないではないかと指摘するのです。
 24章では当時の社会のありさまが告発されています。強い者が力をふるい、弱い者を不当にしいたげています。私たちもまた、そうした現実をまのあたりにしています。
 理不尽な災い、苦悩、重荷があります。決して「神は正しい者を助ける。災いにあうのは悪人だ」などと簡単には言えません。それでもヨブは、「神も仏もない」という虚無に陥るのではなく、神に「なぜ」と問い続けます。「なぜ、あなたはこんなふうになさるのですか」「おかしいではありませんか」との問いは、神を信頼するからこその深く悲痛な問いかけです。
 ヨブ記は、読者もまた「なぜ、神の日を見ることができないのか(1節)」と神に向かって問うように促しています。さらに、ヨブ記を含む聖書全体は「神の日」、終わりのときの神の裁きの日への希望を示すものです。
マタイ福音書25章には、神の日には、すべての民が「小さな者」に対してどうふるまったかが問われると示されています。わたしたちは、神の日をどのように見ることになるでしょうか。

2017年10月15日 (日)

北部日記 10月15日

 先週は3泊4日で、北海教区の「教職講座」が行われました。牧師たちが集まり、教会のさまざまな課題を学ぶ、貴重な研修の機会です。
 まず、「福音宣教を共に担うために -教団『戦責告白』50年-」との主題講演がありました。講師の小海基牧師(荻窪教会)は、今年出版された『日本基督教団戦争責任告白から50年 その神学的・教会的考察と資料』(新教出版社)の執筆者のひとりです。戦責告白の歴史的意義や今日の課題などを聞き、質疑やディスカッションも活発に行われました。
 他にも、『“「信仰」という名の虐待”からの回復』(いのちのことば社)の著者パスカル・ズィヴィーさんによる「ハラスメント」に関する講演、東日本大震災支援の現状、樺太アイヌの歴史・文化と現在、冤罪で服役中の星野文昭さんについてなど、さまざまな内容のレクチャーがありました。また、参加者の中から自分史を語っていただいたり、与えられた聖書の箇所についてグループ・ディスカッションをしたり、牧会現場での取り組みの報告を聞いて懇談したりと、牧師たちが相互の理解と交わりを深め、励ましあう機会となりました。
 北海教区に赴任してから教職講座には毎年出席しています。若い頃は、初めて聞くような教会の具体的課題の数々を理解するのもやっとで、出席している多くの先輩牧師たちからたくさんのことを教えられてきました。今、気がつくと教区でもすっかり古参となり、若い世代の頼もしい牧師たちとのディスカッションが楽しみとなっています。
 

2017年10月14日 (土)

10月8日 「正解」

神は貧しい人を剣の刃から、権力者の手から救い出してくださる。
だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
六度苦難が襲っても、あなたを救い、七度襲っても災いがあなたに触れないようにしてくださる。
飢饉の時には死から、戦いの時には剣から助け出してくださる。
あなたは、陥れる舌からも守られている。
略奪する者が襲っても恐怖を抱くことはない。
略奪や飢饉を笑っていられる。
地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び、野の獣とは和解する。
あなたは知るだろう、あなたの天幕は安全で牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
あなたは知るだろう、あなたの子孫は増え、一族は野の草のように茂ることを。
麦が実って収穫されるようにあなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
見よ、これが我らの究めたところ。
これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。
                         (ヨブ5章15~27節)

 災いにあって「死んだほうが幸いだ」と嘆くヨブを、友人エリファズは「しっかりしろ」と叱り(4:3~5)、「神は正しく、理由なく滅ぼすことはない。ヨブも、神から見れば決して正しいとはいえないはずだ(4:7、17)」とさとします。そして、「神は悪いことをした者を懲らしめることがあっても、それを癒し、救ってくださる。そうなれば君はもう大丈夫だ(5:17~18)」と教えます。つまり、「君は気付いていないうちに罪を犯したに違いない。神に願ってゆるしていただきなさい。きっと救ってくださるだろう」というのです。これは確かにエリファズの信仰から出た、「正しい答」には違いありません。それなのに、ヨブは激しく反発します。「それが悩んでいる友に言うことばか。いつ助けてくれなどと言ったか。いったい、何を言いたいんだ(6:14,22~25)」と、はねつけてしまうのです。
 私たちも、苦悩の友を何とか助けようとして、「正しい答」を示そうとします。しかし、正解が人を救うとは限らないのです。
 主イエスは、正解を教えようとはしませんでした。当時、すべてのことについて、律法に基づく正しい答が求められていましたが、主イエスは律法に基づいてではなく、ご自分のことばで、ご自分に基づいて語り、教えました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった(マルコ1:22)」ために、驚きたたえる人々もいた一方で、正しい答つまり律法をないがしろにするものとして憎まれ、ついには殺されてしまったのです。
 正解とは何でしょう。隣人に、全人格をもって向きあうことではないでしょうか。私たちには、全存在をもって向き合ってくださる主イエス・キリストがいらっしゃいます。その愛によって、わたしたちも勇気をもって隣人に全人格をもって向きあう愛へと促されているのです。

2017年10月 8日 (日)

北部日記 10月8日

 先週、札幌キリスト教連合会の牧師会に出席しました。藻岩山のふもと、市電車庫の近くのマンションの1階のカフェ「壘(るい)」に集まり、今回は札幌YWCAの活動についてお話をうかがいました。
 YWCAは、100年以上の歴史ある世界的なキリスト教女性組織です。札幌YWCAは1950年に設立され、クリスチャンセンターに事務所をおいて、センター1階の「Y‘s CAFE」を運営しながらそこも拠点としています。キリスト教を基盤に、とくにこどもと平和に関わる活動を進めていますが、今は不登校のこどもたちをささえる「フォローアップスクール」や、平和にかかわる活動の一環として「ピースマップ作成」に力をいれているとうかがいました。
 カフェ「壘」は、YWCAの新しい拠点として今年開設されました。壁にはさまざまな本や絵本がずらりと並び、「読み聞かせ」の活動もしています。お話を聞いた後、一同で特製カレーをいただきました(Y‘s CAFEと同じメニューです)。札幌バプテスト教会がすぐ近くにあり、よい交流が始まっているそうです。
 「これから、市内の教会ともっと連携を深めたい」との希望もうかがいました。また、今回の牧師会には加盟団体の「神愛園」からも出席されていましたが、ある教会で「先日、神愛園の出前講座で『介護劇』をしていただき、とても参考になりました」という話題にもなりました。教会だけでなく、信仰にもとづいた世のためのさまざまな働きが、もっと深く交流し手を携えていく可能性を感じました。

10月1日 世界聖餐日 「嘆きのパン」

日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。(ヨブ3章24節)

 東日本大震災の被災地では「復興支援住宅」が建てられ、これまで仮設住宅に入っていた人たちが移転して新しく住み始めています。しかし、仮設住宅でようやく形作られてきたコミュニティーが失われ、特に高齢の方々がまた孤立におちいることが心配されています。実際、孤独になって食事への意欲も失い、毎日コンビニ弁当ばかりですごす方があると聞きました。食べることは生きる基本です。復興の工事が進み、住宅も備えられましたが、人の心やコミュニティーの傷はまだ深いことを知らされます。
 ヨブもまた、突然の災いにあって生きる気力を失っていました。生まれてこなければよかった、もう生きていたいと思わない、と訴えます。一日一日生きるのがつらいのです。命を養うはずの日ごとのパンを食べるよりも、日ごとに嘆きが心をいっぱいにしてしまっているのです。
 被災地の支援を続けている「エマオ」では、皆で集まっていっしょに食事をするようにしています。共に食事をするその中で、少しずつ生きる意欲を取り戻していくのです。
 集まって共に食べるのは、教会にはなじみ深いいとなみです。主イエスご自身、いつも多くの人と食事を共にしていました。人々は、主イエスと共に食事をするなかで、ふしぎに生きる力を与えられていったのです。主イエス・キリストこそは「命のパン」でした。
 教会は、主イエス・キリストの食卓を「聖餐」として大切にしてきました。10月第1週の「世界聖餐日」は、第二次世界大戦の惨禍を乗りこえて、世界の人々が共に生きるためにとよびかけられて始まったものです。今もなお、嘆きや痛みの中で、生きるつらさを抱えている人々に、「嘆きのパン」にまさる「命のパン」が与えられることを祈りながら、聖餐を共に分かち合いましょう。

2017年10月 1日 (日)

北部日記 10月1日

☆北部教会に着任して15年目です。招聘に際し、「5年ごとに総括を行い、その後就任継続について忌憚のない意見交換をする」と確認しました。これまでも5年・10年の節目のときに、何らかの形で「意見交換」の機会をもってきました。今回はどのような形で行うか、役員会で検討してきましたが、まずは10年目のときと同様にアンケートを行うこととしました。今日、アンケートを配布します。牧師の働きだけでなく、北部教会について、信徒の働きについてもいっしょにふりかえっていただく内容です。どうぞ忌憚なくお書きください。
☆先週、教区の委員会で東日本大震災被災地を訪問してきました。奥羽教区・大船渡教会・「いずみ」・「エマオ」を訪れ、またエマオの案内で仙台近郊の津波被災地を訪ねました。行く先々で「Iさんにお世話になりました」と話題になりました。Iさんの働きの大きさをあらためて思い起こしました。
☆土谷良泉牧師からお手紙が届きました。「8月、佐世保で佐藤真史くんに逢いました。北部つながりでなつかしい方とお会いできるのは幸いです」とのこと。掲示板をご覧ください。
☆30日、北星学園創立130周年記念式典に招かれ、関係の教会を代表する立場で感謝祈祷を献げました。式典には130年前に創立者サラ・C・スミス宣教師を送り出したアメリカのエルマイラ第一長老教会からも代表団7名が出席されました。100年を超える教会の働きと交わりは、長い間の無数の祈りに支えられていることを思いました。

お月見コンサート

太平子どもの家お月見コンサート
10月6日(金)19時より
うた 今野博之さん(バリトン)
入場料一家族 200円 おつきみまんじゅう付

Con171006


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