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2017年10月28日 (土)

10月22日 「神に挑む」

わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず、わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と
神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。
この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
神がその裁判官の顔を覆われたのだ。
ちがうというなら、誰がそうしたのか。
                       (ヨブ9章14~24節)

 ヨブの友人たちは「神は正しい。神は正しい人を守り、悪人を滅ぼす」と主張します。誰にも納得いくわかりやすい神の姿です。
 しかしヨブは、そんなことはない、と言いはります。「理由もなくわたしに傷を加えられる(17節)」「罪もないのに、突然、鞭打たれる(23節)」といった神のなさりようは、とうてい納得いくものではありません。それもそのはずで、神にとってヨブなどまったくとるに足りない存在です。ヨブは、「わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう(14節)」「私がよびかけても返事はなさるまい(16節)」とつぶやきます。
 友人たちが示す神は、人間にとって納得できる神であり、言い換えれば人間の理解の範囲におさまる神です。しかしヨブは、神のなさりようは人間が理解し納得できる範囲を超えていることを知っています。ヨブのほうが、神を神とし、人間を超えた絶対の存在として認め畏れているといえます。
 それでもヨブは、絶対者である神に対して黙っていません。「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と(35節)」。神は絶対だとわかっていても、なお、神に向き合い、訴え、主張します。無謀にも、神に挑むのです。
 創世記32章に、神に挑んだ人のエピソードが記されています。帰郷を目前に苦悩するヤコブは、一晩、何者かと格闘しました。ヤコブは腿を痛めますが、相手は「お前は神と闘って勝った」と祝福します。本来なら絶対者である神に挑んで勝つなどありえないことです。しかし神は、ふしぎにも人が神に挑むことをおゆるしになり、たとえ傷を負わせたとしても、勝利と祝福をお与えになることがあるのです。とるに足りないわたしたちですが、納得のいかない神に挑むことがあります。そこに、ふしぎにも祝福が与えられることがあるのです。

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