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2017年11月11日 (土)

11月5日 「塵の上に立つ方」

わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
(ヨブ19章25~27節)

 1600年前、聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、この箇所を「私をあがなう方は生きておられ、終わりの日に私は地からよみがえり、再び皮膚をまとってわが身において神を仰ぎみるであろう」という意味に訳しました。ヨブは、キリストを信じる者の復活を預言している、と読みとったのです。
 しかし正確には、原文では「地(塵)の上に立つ」のはヨブではなく「あがなう方」のことです。「塵」とは「土の塵」のことです。人は塵から創られ、死ねば塵に返るものです(創世記3:19)。この箇所の「塵」は、ヨブの死を示すでしょう。ヨブが死んだとしても、別の「あがなう方」がいる、というのです。
 「あがなう」とは、もともと捕虜や奴隷を、代金を払って買い戻して救い出し、解放することでした。また殺害された人のために報復して無念をはらすことをも含みます。「立つ」とは、法廷で弁論する姿勢です。つまりヨブは、自分が死んだとしても、ヨブのために、その主張を代弁し、かばい、とりなし、無念をはらす方がいる、と述べているのです。
 この「あがなう方」とは、ほかならぬ神ご自身のことだと、多くの聖書学者は考えています。
 神は理不尽にもヨブに苦難をもたらしました。絶対者である神にとって、ヨブの存在など塵のようにはかなくむなしいものであることを、ヨブはよくわきまえています。しかし、それでもヨブは、神は自分の存在をむなしく終わらせはしない、神はわかってくださる、と信じているのです。
 人間からかけはなれた絶対者である神が、しかし塵にすぎない私をかえりみてくださるという信仰は、旧新約聖書全体を貫いて証されています。ヒエロニムスは、翻訳者としてしては間違いを犯したとしても、ここにキリストを読みとったその信仰は間違っていなかったと言えるでしょう。
 

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