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2018年1月

2018年1月28日 (日)

北部日記 1月28日

☆きょう、教会の一日修養会として、「これからの北部教会」について考え、話し合います。昨年秋から、教会の財政や、牧師の働きをめぐって懇談会を重ねてきました。それらを踏まえて、さらに前進するよう導きを求めましょう。
☆先週月曜日、東京での会議に出席したのですが、帰るころには大雪となり、羽田空港に向かう電車も遅れぎみに。ようやく空港につくと、次々に欠航のアナウンス。さいわい予約した便は時間通りに機内へ案内され、席につくことができました。ところが、それからそのまま機内で待つこと2時間半、とうとう「この便は欠航となりました」と、降ろされてしまいました。しかたなく、一人暮らしの息子のところに泊まろうと、アルバイト先の息子を訪ねると、「ええっ!! なんでここにいるの?!」と、幽霊にでも出会ったような驚きよう。晩飯とひきかえに泊めてもらい、翌日ぶじに帰宅できました。
☆厚別教会の代務者として、教会の幼稚園の先生たちの聖書研究も依頼されました。といっても、お話を用意するのではありません。先生の一人が担当者となってその月の聖句について調べて発表し、出席者全員が感想や疑問を順に述べていきます。最後にそれらについて牧師がまとめのコメントをするのです。先生たちからどんな感想や疑問が出ても対応できるよう、あらかじめじゅうぶん調べておかねばなりません。かえってたいへんですが、担当者の綿密な準備と先生たちの活発な発言はとても刺激的で、聖書を読む楽しさをあらためて教えられています。

2018年1月27日 (土)

ほくぶカフェ

ほくぶカフェ
2月17日(土)10:30~13:30
「高齢者が幸せに暮らせる社会をいっしょに作りはじめませんか」
お話 後藤学さん (社会福祉法人神愛園 理事長)

軽食を用意します。途中参加歓迎
どなたでもおいでください

昼食代200円 申込不要

Cafe180217


1月21日 「教会の幸い」

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」 (ルカ6章20~26節)

 今日の聖書の箇所は、マタイ10章の「山上の説教」と対比して「平地の説教」とも言われます。マタイ10章と比べると、「幸いだ」の繰り返しが四回と少なく、またひとつひとつの句も簡潔です。また、マタイにはない「不幸だ」の句が四回くりかえされます。ルカでは「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである(20節)」の句が中心となることがきわだっています。
 「貧しい」というギリシア語は、「ちぢこまる」「うずくまる」という語がもとになっています。道端でうずくまって物乞いし、心も萎縮しおののいているイメージです。「飢えている」「泣いている」も、そういう貧しさの具体的な状況です。必要なものを欠き、それゆえの痛みや悲しみ、せつなさに涙するのです。 
しかし主イエスは、神の国はこういう人々のものだと宣言します。神の国とは神の支配のことです。神が力をふるってみわざを行う、それを自分たちのこととして味わい知るというのです。
 後半で「不幸だ」と宣告されているのは、そうした貧しい人々の対極にいる人たちです。そこにはまた、「神の国」「神のみわざ」とは、いま富んでいるあの人たちのようになることではない、という戒めも含まれているでしょう。
 さて、この「幸い」は、とりわけ弟子たちにむけて告げられたことばでした(20節)。弟子たち、つまり教会こそ、このことばを受けとめなければなりません。
 教会が小さくされ、おそれおののき、乏しく、切ない思いをし、受け入れられないとき、教会は神の支配、神のみわざを味わいます。教会は、今もてはやされている者のようになることを求めるのではありません。神の国を信じて待ち望み、願い祈る教会の幸いは、貧しさの中にこそあります。そういう教会の幸い、神の国を、わたしたちはすでに知っているのではないでしょうか。その幸いに支えられ、促されて、わたしたちも歩んでいくのです。

2018年1月21日 (日)

北部日記 1月21日

 北海教区では今、専任の牧師のいない「無牧師」の教会が10ヶ所あります。そうした教会では「代務者」を定めなければなりません。代務者は法的に教会の(一時的な)代表となり、公的な手続き、とくに役員会や総会といった会議の責任者となります。
 代務者の大きな役割は、「牧師の招聘の準備」です。できるだけ早く次の牧師を迎えて教会が新しく歩みだせるよう、道筋をつけることです。
 ところが、近年は、新しい牧師の招聘が、ますます難しくなってきています。教会の財政が厳しくなっているだけではありません。教団に属する牧師の数は、数字の上ではそんなに減っていないのですが、一般社会での働きを終えてから牧師になる人など、都市部での高齢の牧師が増えているのが実態です。自身の健康や家族の介護などで、新しく地方の教会に赴任することができない人も多いのです。若い世代の牧師でも、こどもの医療や進学などの条件を考えて、地方への赴任をためらうケースもまれではありません。
 教会からの依頼をうけて新しい牧師の候補を紹介するのも、教区の働きのひとつです。教区幹事が窓口となって教会の相談にのり、あちこちから情報を集めて教会と牧師をひきあわせます。現在、新年度にむけて牧師を迎えようとしている教会もいくつもありますが、来年度、無牧師を覚悟しつつある教会もあります。
  無牧師の教会の代務者として、また教区の立場で、いろいろな教会と牧師のよい出会いを祈り求める日々です。

2018年1月13日 (土)

1月7日「解放の始まり」

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4章16~21節)

 故郷ナザレの会堂での集会に出席した主イエスに、イザヤ書が渡されました。巻物を開くと、イザヤ書61章の冒頭部分が「目に留まった(17節)」のでした。
 イザヤ書のこの箇所は、国を失って捕囚とされ、貧しく、束縛と抑圧に苦しんでいるユダヤの人々に向けて解放の希望を告げたことばです。
 ここで「主の恵みの年」とあるのは、律法で定められた50年に一度の「ヨベルの年」のことです。「ヨベルの年」には、売り渡された土地は元の持ち主に返され、借金は帳消しになり、奴隷は解放される定めでした。貧富の格差に苦しむ人々が解放され、社会が本来のあるべき姿に戻されるのが「ヨベルの年」です。イザヤ書は、苦難の中の人々に、本来のあるべき姿が回復される時がくるという希望を告げたのです。
 イザヤ書61章の冒頭は、この解放の希望を告げる使命が「わたし」に与えられた、という預言者の自覚をはっきり述べている箇所です。主イエスは、ナザレの会堂で、まさにここに目を留めて、ご自分の使命をはっきり自覚されたのではなかったでしょうか。「このことばは今日実現した」とは、解放を告げるご自身の使命が今から始まるという宣言だったのです。
 解放を告げるために主イエス・キリストがわたしたちのところに確かに遣わされました。今に続く、主イエスの働きは、あの時から始まったのです。
 しかし、主イエスのことばは故郷に受け入れられません。恐ろしい弾圧が迫る中、ふしぎにも主イエスはそのまっただなかを通って歩んで行かれました。主イエスの伝える解放の福音は、まさにそのようにして世界へと進んでいきました。困難の中でなお解放を告げる働きそのものが、解放の始まりとなっていくのです。

北部日記 1月14日

 礼拝の最後に「祝祷」がなされます。祝福の祈りです。単なる閉会のことばではありません。「礼拝のクライマックス」とまで言われるほど、大切なことばです。
 これまで、牧師が不在の際には、大野牧師に祝祷をお願いしていました。しかし今後はどうしたらいいか、先週の役員会で少し相談しました。まだ結論は出ていませんが、当面、「黙祷」することとしました。
 実は、牧師でなければ祝祷をしてはいけない、と定められているわけではありません。教団では、かつていろいろ議論がなされ、現在は祝祷に関する規定はありません。それでも、なんとなく「祝祷は牧師がするもの」と考えられているようです。
 先週行われた北海教区年頭修養会は、「みんなでつくる礼拝」をテーマに、礼拝について学びました。講演に引き続き、ワークショップとして「祝祷のことばを考える」という時間がありました。数名ずつグループに分かれ、手引に従ってそれぞれ祝祷のことばを作ってみるのです。
 祝祷のことばを創作するのは、新鮮なとりくみでした。礼拝に集められ、日常の問題を主に告白し、福音のみことばをいただき、祝福されてまた日常生活に戻っていく礼拝の意味を、その日の礼拝にふさわしい祝福のことばをみんなで考えることを通していっそう深く考えることができました。
 これから、時代の環境や条件がどんどん変わっていく中、教会の礼拝の形もまた柔軟に考えていっていいのだと促されました。わたしたちの教会にとって、ちょうどよいタイミングでの年頭修養会の学びでした。

2018年1月 7日 (日)

北部日記 1月7日

 新年最初の日曜日です。すでに正月気分も薄れ、とっくに仕事も始まっている人も多いでしょう。それでも、今日はあらためて主の恵みの光のもとでの新しい日々の始まりを心に受けとめたいと思います。
 2018年は、どのような年となっていくでしょうか。昨年からの流れをふりかえると、社会の状況も、世界情勢も、残念ながら喜ばしい方向へのきざしはなかなか見出せません。個々人の歩みはどうでしょうか。もちろん、将来への希望をしっかり見つめている人もあるでしょうが、健康の衰え、生活の不安、先行きへの迷い、寂しさやむなしさを抱えている人もまた多いでしょう。教会の歩みもけっして安泰とはいえません。昨年、教会の財政の課題について懇談会をもちましたが、これから教会の運営にもいっそう苦労を味わうことを覚悟しなければなりません。
 けれども、むしろこのような時にこそ、信仰が光として輝きだすのだと思うのです。聖書のことばは、そのほとんどが、幸福に満ちあふれる中ではなく厳しくつらい歴史的体験のただなかで記され、また読まれてきたものです。暗く厳しく重い時の中でこそ、聖書のことばの真価を、私たちは知ることになっていくでしょう。そして、生ける神のみことばである御子キリストが、私たちのところにおいでになり、私たちと共にいてくださることを、いっそう深く実感し、その意味を知ることになるでしょう。
 新しい日々、私たちの主と、ますます深く、かたく、強く結ばれる時となることを、希望として仰ぐのです。

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