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2018年1月27日 (土)

1月21日 「教会の幸い」

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」 (ルカ6章20~26節)

 今日の聖書の箇所は、マタイ10章の「山上の説教」と対比して「平地の説教」とも言われます。マタイ10章と比べると、「幸いだ」の繰り返しが四回と少なく、またひとつひとつの句も簡潔です。また、マタイにはない「不幸だ」の句が四回くりかえされます。ルカでは「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである(20節)」の句が中心となることがきわだっています。
 「貧しい」というギリシア語は、「ちぢこまる」「うずくまる」という語がもとになっています。道端でうずくまって物乞いし、心も萎縮しおののいているイメージです。「飢えている」「泣いている」も、そういう貧しさの具体的な状況です。必要なものを欠き、それゆえの痛みや悲しみ、せつなさに涙するのです。 
しかし主イエスは、神の国はこういう人々のものだと宣言します。神の国とは神の支配のことです。神が力をふるってみわざを行う、それを自分たちのこととして味わい知るというのです。
 後半で「不幸だ」と宣告されているのは、そうした貧しい人々の対極にいる人たちです。そこにはまた、「神の国」「神のみわざ」とは、いま富んでいるあの人たちのようになることではない、という戒めも含まれているでしょう。
 さて、この「幸い」は、とりわけ弟子たちにむけて告げられたことばでした(20節)。弟子たち、つまり教会こそ、このことばを受けとめなければなりません。
 教会が小さくされ、おそれおののき、乏しく、切ない思いをし、受け入れられないとき、教会は神の支配、神のみわざを味わいます。教会は、今もてはやされている者のようになることを求めるのではありません。神の国を信じて待ち望み、願い祈る教会の幸いは、貧しさの中にこそあります。そういう教会の幸い、神の国を、わたしたちはすでに知っているのではないでしょうか。その幸いに支えられ、促されて、わたしたちも歩んでいくのです。

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