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2018年2月

2018年2月25日 (日)

北部日記 2月25日

 江別にある酪農学園大学は、キリスト教にもとづき、「神を愛し、人を愛し、土を愛す」という「三愛精神」を理念として設立されました。1950年、当時の樋浦誠学長は、農村青年がみずから学び、団結することをよびかけました。これに応え、北海道や東北の各地で「三愛塾」が開催されるようになります。そのひとつ、「道北三愛塾」は、ずっと道北クリスチャンセンターが事務局となって今日まで続けられています。
 30年前、東京教区西支区青年会の興部ワークキャンプに参加した際、道北三愛塾を見学する機会がありました。講師は酪農学園大学の井澤敏郎先生でしたが、熱情あふれるお話に圧倒されたのを覚えています。
やがて旭川の教会に牧師として赴任した後、何度か「道北三愛塾」に顔を出してお話を聞く機会もありました。道北の地域に息づく「三愛精神」に触れて、多くを教えられ、励まされました。
 道北三愛塾では、毎回、キリスト教信仰を学ぶ「聖書と人生」という時間があります。北海教区のいろいろな牧師たちが担当していますが、なぜか、これまで一度も依頼されたことがありません。やはり、なにかしら「農」に携わっていないとお話しする資格がないのでしょうか。昨年、道北センターのウィットマー館長に、ふとそんなことをもらしたら、「ええっ!」と驚かれました。数ヵ月後、道北センター主事の藤吉求理子先生から、「あまりに身近で、もうとっくにお話しされていたと思ってた」と、今週行われる三愛塾での「聖書と人生」の時間を頼まれました。30年ごしでたどりついたつとめです。心して準備を進めています。

2018年2月18日 (日)

北部日記 2月18日

 30年ほど前、東京教区西支区の青年会の活動の中でときどき顔をあわせる大坪くんという青年がいました。口数少なく独特の雰囲気が印象的でした。そんなに親しくつきあっていたわけではなかったのですが、その後、旭川の教会に突然顔を出してくれたこともありました。
 2011年、札幌中央教会に、新しい牧師が赴任してこられました。大坪くんのお父さん、大坪章美(のりよし)先生です。大坪先生は、長く機械メーカーなどに勤め、また信徒として教会生活を送ってこられましたが、退職後に牧師となることを志して東京神学大学に入学されました。そして、初めての任地として、前任の梅田憲章牧師が病気で召された後の悲しみを抱えた中央教会に着任され、現在まで7年間、牧会に携わってこられました。
 2011年度は、札幌地区で年頭修養会を担当した年でもありました。着任したばかりの大坪先生は、実行委員会の会計を担当し、会社勤めの頃の力量を発揮して、素人ではてこずるような仕事を、いつもにこにこと事もなげに処理してくださっていました。
  札幌中央教会と札幌北部教会とは、いずれも札幌北光教会の紛争の歴史にかかわって歩みを始めたのですが、出発点においては大きく隔たっていたと言わねばなりません。それが、今日、交換講壇の交わりをもてることは、主の深いはからいです。交換講壇を快く承知してくださった大坪先生は、この3月で中央教会を辞任し北海道を離れます。これまでの大切なお働きに心から感謝いたします。

2018年2月11日 (日)

北部日記 2月11日

☆2015年、「安保法案」が国会に提出され、全国で反対運動が展開されている中、若い人たちの“SEALDs”という活動が注目を集めました。東京の国会前の集会などでの心揺さぶるようなことばや斬新なデモのスタイルが報じられましたが、東京だけでなく関西方面などでも連携する若い人たちが活発に活動していました。そのころ、会津放射能情報センターの*岡さんから、「私の姪も、“SEALDs KANSAI” でがんばってるのよ」と何度か聞いていました。毎年行われている「信教の自由を守る2・11札幌集会」の準備を進める際、「今の時代の若い人たちの声を聞きたい」ということになり、*岡さんを通じて姪の==さんに連絡をとりました。集会でのお話を快諾してくださったのですが、「あのー、ところで、Tくんのお父さんですよね? 高校で同じクラブでした」と。聞けば、--香さんと同級生だったとか。明日の集会でお話を聞きます。未来が危ぶまれる時代ですが、新しい光も確かにともされていることを心強く思います。
☆台湾で地震が起きました。被害があった花蓮という町の近くに、台湾基督長老教会の神学校、玉山神学院があります。台湾の「原住民」の牧師を養成する神学校で、ディヴァン宣教師の母校です。幸い、神学校や諸教会に大きな被害はないようですが、祈りにお覚えください。
☆25日の礼拝後、教会経常会計のためのバザーを行います。外部にはとくに宣伝せず、教会員それぞれで持ち寄ったものを売ります。負担にならない程度で、楽しく工夫して準備しましょう。

2月4日 「日々の十字架」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
(ルカ9章21~27節)

 主イエスのことを「神のメシア」と告白した弟子たちに対し、主イエスは、ご自身が苦難を受けることを予告し、従う者たちも自分の十字架を背負ってあとに続くよう促します。映画『沈黙』には残酷な迫害に耐えるキリシタンたちの信仰が描かれていますが、彼らは、十字架を担った主イエス・キリストの苦痛と屈辱に忠実に従ったといえるでしょう。
 この場面で、ルカ福音書は、マタイやマルコの並行記事にはない、「日々」という一句を補って記しています。この一句には、「キリストに従う者が背負うべき自分の十字架とは迫害の苦難に限らない。日々、毎日の日常生活の中に、主の苦難に従う場面がある」という意味がこめられています。
 わたしたち、それぞれの生活の中で重くつらいできごとを負っています。病気や体の衰え、看病や介護の重荷、学校や職場での問題、家族や友のための心労、生活や人生の悩み、愛するものを失った悲しみ・・・。悩み多い日々を、「日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とのことばを心に刻んで歩むとき、その日々は、ささやかながら主の十字架の苦難に従い、主の十字架に連なる信仰の歩みとなるのです。
 また「自分を捨て(23節)」「命を失う(24節)」とは、自分が望んでいた生き方を捨てることでしょう。思いえがいていた生き方をあきらめ、不本意な生き方を強いられることがあります。直接キリストのため、教会のためにそうするだけではありません。キリストご自身、「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたこと」と言われた方です。小さくされた人のたったひとりのために、自分の願いをあきらめて自分を差し出す生き方があります。それもまた、主の十字架に従う道として、永遠の命、いつまでも価値ある生き方とされるでしょう。

2018年2月 4日 (日)

北部日記 2月4日

 わたしたちの教会では、ふだん読む聖書として、日本聖書協会発行の『新共同訳』を用いています。1987年に出版され、それまで広く用いられてきた『口語訳』にかわって用いられるようになっています。日本の教会では、ほかに日本聖書刊行会で発行する『新改訳』を用いている教会も多くありますし、『口語訳』をまだ用いている教会もあります。
 聖書の日本語訳には、これ以外にも多くのものがあります。時代と共に進む聖書の研究の成果や、日本語そのものの変化が、それぞれの訳に反映されています。また訳者の信仰理解によっても訳しかたが違ってきます。その意味では古い『文語訳』もなお有用です。いろいろな訳をくらべてみることじたい、聖書の学びとして有益です。
 日本聖書協会では、『新共同訳』の次の新しい日本語訳聖書の出版の準備を進めています。多くの学者たちが議論を重ねながら、最新の研究成果をもとにふさわしい日本語表現を選び、読みやすく、また教会で使いやすい聖書を作ろうと何年も作業を進めてきました。ようやく今年12月に刊行予定と発表されました。
 こんどの訳は、『聖書協会共同訳』とよばれています。聖書学の新しい研究成果がとりいれられているのはもちろんですが、「教会の礼拝にふさわしい聖書」をめざしたため、『新共同訳』よりもむしろ『口語訳』に近い表現も多くなったようです。
 新しい聖書を教会でどう取り入れていくか、いずれ相談しなければなりません。それは教会の礼拝を考えるよい機会ともなるでしょう。
 

2018年2月 3日 (土)

1月28日 「恐れから喜びへ」 一日修養会

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 (ルカ10章1~12節)

 主イエスはご自身の福音の宣教の使命を多くの無名の弟子たちに託されました。「収穫は多いが働き手が少ない」つまり取り組むべき働きの膨大さにくらべて担い手が足りない、もっと担い手を、と願う者たちを、主は「行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす」と遣わされたのです。
 遣わされていく者たちは、行く手に何が待ち受けているのかと、狼の中に送り込まれる子羊のように、びくびくと恐れ、不安だったことでしょう。しかも、主は、充分な予算も、いろいろな場面に対処できる装備も、困難な歩みを守るものも、有力者の保護も、備えさせてくれません。それでも、平和を携えていくように、相手がどうであろうと、自分は心落ち着け、信頼をもってことにあたるようにといましめます。そして、行く先々で助けを受けて、人のために働き、福音を宣教するよう促すのです。けれども、いつもうまくいくとは限りません。受け入れられないときは、もう責任を負う必要はない、あとは神ご自身にゆだねて次へむかうようにとも促してくださいます。
 きょう、一日修養会として、「これからの教会」について共に考えます。わたしたちも、行く手にさまざまな恐れや不安を覚えています。しかし、主は、わたしたちに福音宣教の使命を与えて遣わしているのです。
 遣わされた弟子たちは喜んで帰ってきて、妨げるものがしりぞけられていったことを報告しました(17節)。遣わされて宣教の働きに携わるとき、主の御名の力をあらためて知ることになったのです。無力で未熟なものが、かえって神の力、神の支配、神の国を知ります。それこそが、主イエス・キリストご自身の喜びでした(21節以下)。
 私たちも、福音の宣教に携わるなかで、神の支配を知り、恐れから喜びへ導き入れられるでしょう。それが主ご自身の喜びなのです。

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