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2018年2月11日 (日)

2月4日 「日々の十字架」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
(ルカ9章21~27節)

 主イエスのことを「神のメシア」と告白した弟子たちに対し、主イエスは、ご自身が苦難を受けることを予告し、従う者たちも自分の十字架を背負ってあとに続くよう促します。映画『沈黙』には残酷な迫害に耐えるキリシタンたちの信仰が描かれていますが、彼らは、十字架を担った主イエス・キリストの苦痛と屈辱に忠実に従ったといえるでしょう。
 この場面で、ルカ福音書は、マタイやマルコの並行記事にはない、「日々」という一句を補って記しています。この一句には、「キリストに従う者が背負うべき自分の十字架とは迫害の苦難に限らない。日々、毎日の日常生活の中に、主の苦難に従う場面がある」という意味がこめられています。
 わたしたち、それぞれの生活の中で重くつらいできごとを負っています。病気や体の衰え、看病や介護の重荷、学校や職場での問題、家族や友のための心労、生活や人生の悩み、愛するものを失った悲しみ・・・。悩み多い日々を、「日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とのことばを心に刻んで歩むとき、その日々は、ささやかながら主の十字架の苦難に従い、主の十字架に連なる信仰の歩みとなるのです。
 また「自分を捨て(23節)」「命を失う(24節)」とは、自分が望んでいた生き方を捨てることでしょう。思いえがいていた生き方をあきらめ、不本意な生き方を強いられることがあります。直接キリストのため、教会のためにそうするだけではありません。キリストご自身、「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたこと」と言われた方です。小さくされた人のたったひとりのために、自分の願いをあきらめて自分を差し出す生き方があります。それもまた、主の十字架に従う道として、永遠の命、いつまでも価値ある生き方とされるでしょう。

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