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2018年3月 3日 (土)

2月25日 「招かれる者」

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 (ルカ14章15~24節)

 主イエスが宴会のたとえを語ったのは、ある安息日、ファリサイ派の議員に招かれた食事の席でのことでした(14:1)。
7節以下では、宴会での席の選び方について語られています。しかしまた、食事に招いたり招かれたりという世間のつきあいは、意味がないとも教えています。どうせ招くのなら、お返しを期待できない人、自分にとって何の得にもならないような人を招きなさい、「正しい者が復活するとき」、つまり終りの時、神のみこころが明らかになるときに意味があるのはむしろそういうふるまいであり、この世でどんな席についたとか、恥だとか面目だとか、誰に貸しをつくって返してもらうとかは、何の意味もない、と言いきっているのです。
そして、神のふるまいについて、宴会に人を集めるたとえを語ります。21節に挙げられている「貧しい人、体の不自由な人・・・」は、13節に挙げられている「お返しを期待できない人」たちと同じ人々です。神が招くのはまさにこういう人々です。神にお返しなどとてもできない人々、神にとってなんの得にもならない人々なのです。
 また、23節の「小道」とは、「垣根」という意味の語です。隔てられ、遠ざけられ、仲間とされてこなかった、垣根のむこうの人々は、12節の「友人、兄弟、親戚、近所の金持ち」には決して入ることのない人々です。神はこうした「垣根のむこうの人々」を、あえて、無理にでも、招きよせるのです。
わたしたちは、そういうものとして、神のもとに招かれています。神に対しなんのお返しもできない者、神からはもともと遠く隔たり、神の身内、仲間とみなされるはずのなかった者なのに、神はあえて招いてくださったのです。
だから、わたしたち教会は、そのように招くのです。教会に何の得にもならなくても、何の見返りもなくても、神の招きを伝え、あらわすのです。

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