« 北部日記 3月4日 | トップページ | 太平子どもの家 観劇会 »

2018年3月10日 (土)

3月4日 「祈りの教え」

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18章1~14節)

 主イエスは、「頼れるもののない弱い立場のやもめでも、しつこく訴えれば、神の正義など気にも留めない不正な裁判官でさえしぶしぶ耳を傾ける」とたとえを語りました。ルカは、このたとえの意味を「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と、最初から明かしてしまっています(1節)。
 ファリサイ派と徴税人のたとえでも、ルカは「うぬぼれて他人を見下している人々に対して(9節)」と、はじめにその意図を示しています。このたとえの中のファリサイ派の祈りは、当時の模範的な祈りです。ファリサイ派は、ユダヤが異民族に支配されているのは、自分たちが神の律法をおろそかにしているからだと考え、民の解放と救いを願って律法の実践につとめました。彼らにとって、ローマの支配の手先である徴税人は許しがたい存在です。たとえの中の徴税人は、そういう自分に悩み、葛藤し、だからこそ神に目を上げることもできず、ただ罪人の自分を嘆いているのでしょう。しかし、主イエスは、神はこの徴税人を義とされたと語ります。罪と矛盾と葛藤と苦悩の日常生活のまつ「家に帰った」徴税人を、神は憐れんでくださるのです。
 これらのたとえそのものは教えるためのフィクションですが、題材は当時の社会で実際よくあるリアルな話でした。今、主イエスがたとえを語るとしたら、今日のどんな現実から語るでしょうか。
 いま、生活に困窮していても助けを求められず途方にくれるシングルマザーたちがいます。沖縄で権力の手先とされて職務についている機動隊の若者の苦悩があります。今なら、主イエスは、こうした人々を神は憐れみ、義としてくださると語るのではないでしょうか。
 ルカの「たねあかし」にもかかわらず、だいじなのは、どう祈るかという方法や心がまえ以上に、神は誰に目をとめてくださるか、ということなのです。

« 北部日記 3月4日 | トップページ | 太平子どもの家 観劇会 »

説教要旨」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 3月4日 「祈りの教え」:

« 北部日記 3月4日 | トップページ | 太平子どもの家 観劇会 »