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2018年3月24日 (土)

北部日記 3月25日

 新教出版社から長年にわたって発行されている『福音と世界』という、かなり“硬派”な月刊誌があります。3月号は、イースターを前に『キリスト教と犠牲のシステム』という特集を組んでいます。
 聖書は「イエス・キリストの十字架の死は人の罪をあがなう『犠牲』の死であった」と述べています(ヘブライ10章など)。問題は、その後です。歴史の中で、しばしば「尊い犠牲」という言い方で、理不尽な死を美化・正当化することが行われてきました。とくに、キリスト教信仰の影響のもとで、不慮の死が、あたかもキリストにならって人々を救うための「犠牲」であったかのように言われることがあります。
 『福音と世界』の特集では、長崎の原爆による死者を「犠牲」とたたえることで、戦争の悪が覆い隠されてしまったことを指摘する記事が掲載されています。「犠牲」を美化し、たたえることは、それによってさらにまた特定の人々に不利益や損害を押し付け、ときには死をも受け入れさせるように導くことがあります。たとえば国家のための兵役を求めたり、沖縄に基地を押し付けたり、企業のために理不尽な働きをさせたりするときに、いとも容易に「尊い犠牲」「みんなのために犠牲となる」といった言い方がなされます。力のある者の支配のために、しばしばそういう「犠牲の論理」がつごうよく使われるのです。
 しかし、キリストの十字架は、唯一の献げものであり、これ以上の犠牲はもはや不要になったはずです(ヘブライ10:18)。犠牲は、もう求めてはならないのです。

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