« 北部日記 4月15日 | トップページ | 北部日記 4月22日 »

2018年4月21日 (土)

4月15日 「持っているもの」

ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。  (使徒3章1~10節)

 生まれつき足の不自由な男が、エルサレムの神殿の門のそばで物乞いをしていました。毎日、彼をその場所に運んで来ていたのは、誰だったのでしょうか。神殿に来る善男善女が彼の姿に同情して施す金銭の上前をはねるのが目的だった可能性は少なくありません。男を、金銀を得るための道具として利用し、身動きできない彼をしっかり管理して毎日かせがせていたのではないでしょうか。彼がどんなに金銀を得たところで、そうした境遇から解放されることはないのです。
 私たちの目の前の現実も大差ないかもしれません。働く者は、ただ利益をえるための道具として連れてこられてそこに置かれ、身動きもできないまま管理・束縛されているのです。
 通りかかったペトロとヨハネは、男に「持っているものをあげよう」と告げます。「持っているもの」とは、「イエス・キリストの名」のことでした。この後、くりかえし、「イエス・キリストの名」が問題とされます(3:16、4:7,10~12)。弟子たちは、キリストの名を帯びていました。彼らを通してキリストがみわざをなされます。それが、彼ら、教会が「持っているもの」なのです。
 そのキリストの名によって、身動きできなかった男が自分の足で立ち、自分の歩みを始めました。金銀を得るための道具としての束縛から解放され、大いに喜び、生まれて初めて踊り、神を賛美し礼拝するものとなったのです。
 教会には、お金はありません。しかし、持っているもの、キリストの名があります。わたしたちには、イエス・キリストがついているのです。キリストは、人を金銭の支配から自由にし、自分の人生を歩む喜びをもたらします。わたしたちの「持っているもの」を、どうやって分ちあっていくことでしょうか。

« 北部日記 4月15日 | トップページ | 北部日記 4月22日 »

説教要旨」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/520602/66635550

この記事へのトラックバック一覧です: 4月15日 「持っているもの」:

« 北部日記 4月15日 | トップページ | 北部日記 4月22日 »