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2018年9月 8日 (土)

9月2日「自分の道を終わりまで」 召天者記念礼拝

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
(使徒20章22~24節)

 召天者名簿に、大野一夫牧師のお名前が加えられました。病を抱えながら、最晩年、家庭集会で福音を語ることに熱意を注がれた姿が、24節のことばに重なります。
 この聖句は、使徒パウロの遺言ともいえるメッセージの一部です。長い間の伝道の働きに区切りをつけ、エルサレムを経てローマへ向かおうとしています。それは神に示された道でしたが、決して平穏な道ではありません。むしろ苦悩と困難が待ち受けている道です(22~23節)。聖霊に「促されて(22節)」とは、直訳では「束縛されて」という意味です。どんな苦難があったとしても、神が定めた道を行くほかないのです。
 「自分の決められた道を走りとおし(24節)」とは、「自分の走るコースを終わりまで行く」という意味です。与えられた道を、自分に与えられた行程としてまっとうしよう、というパウロの決意が示されています。「命すら惜しいと思いません」とは、直訳では「自分の命のことは言うに値しない」となります。生きるかどうかをあれこれ言うより、神様から与えられた道をとにかく行けるところまでいこう、ということでしょうか。
 パウロは、「福音を力強く証しする」人生をまっとうしました。しかし、読みようによっては、「自分の決められた道を走りとおす」ことがすなわち「神の恵みの福音を力強く証しする」ことだ、と受けとることもできます。
 きょう覚える信仰の先達も、それぞれに与えられた道を終わりまで、行けるところまで行きました。それが福音の証として用いられ、わたしたちに示されています。私たちもそれぞれに与えられた自分の道があります。何が待ち受けているかわかりませんが、その道を終わりまでいくことが、福音を証しするつとめをはたすこととなるのでしょう。

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