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2018年11月24日 (土)

11月18日 「家族のきずな」

このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。 (エズラ9章1~3節)
 
 家族が家族としてむすびあう、そのきずなは何でしょう。心の結びつき、愛でしょうか。しかし、心がうつろい、愛が薄れ、壊れてしまうこともあります。それでも家族の形が生活のため、あるいは世間体のために保たれることもあるでしょう。答は単純に割り切れるものではありません。
 聖書に、家族が問われる場面があります。バビロン捕囚から帰還した民には、現地の異民族の娘をめとって家庭を築いた人が少なくありませんでした。指導者エズラはそれを許しがたいこととして、離縁を命じたのです。
 帰還してきたイスラエルの人々は、ありていにいって貧しい移民にほかなりません。生活基盤を得るため、現地の女性の実家を頼ったのが実態でしょう。生活習慣も文化も言語も現地の人々にあわせて暮らし、このままだと次の世代にはイスラエル民族は消滅してしまいかねません。他民族と縁を切ることが、民族を守るための究極の手段だったのです。
 とはいえ、夫たちは、それをよしとしたのでしょうか。それまで営んできた家族のきずなとは何だったのでしょう。
 何があっても、誰から何と言われても、家族がばらばらにならないような確かなきずながあるでしょうか。
 私の父は、戦後の混乱期、家族がばらばらになる体験をしました。自分が家庭を築くとき、何があっても壊れない家族のきずなの確かな支えを求めてキリスト教の洗礼を受けました。また、妹はインドネシア人の男性と結婚しています。彼はイスラム教の家庭出身でしたが、結婚に際しキリスト教を受け入れ、家族もやがて理解してくれました。
信仰によるきずなもあれば、民族や宗教をのりこえるきずなもあります。人と人を結ぶ確かなきずなを求めるとき、どんな答を見出すでしょうか。 

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