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2019年1月

2019年1月27日 (日)

北部日記 1月27日

 先週、交換講壇のために新発寒教会を訪れました。雪道を心配したのですが、車で30分もしないで到着。こんなに近かったと、あらためて気づかされました。下手稲通に面した、好立地に建つ教会です。
 新発寒教会は、2年前に新しい会堂を建築しました。教会員数二十数名の教会にとって、前の会堂を取り壊して新会堂を建築する決断は、容易ではなかったことでしょう。教会員みんなで、ほんとうにせいいっぱいを献げていくために、どんなに真剣で深い祈りがあったことかと思います。
 もちろん、教会員からの献金だけでなく、教区から借り入れたり、外部献金を募ったりしてきました。さらに機会があるたびに積極的に物品の販売も手がけて、少しでも収入を得るように努力を重ねています。しかし、状況はなお厳しく、あらためて第2次募金をよびかける準備を進めています。
わたしたちの教会も10年前に会堂を新築し、借入金返済の努力を続けて、先日ようやく教区からの借入金を完済しました。重荷を共に担う思いで、新発寒教会の会堂募金に協力したいと思います。
 今日は、かねてから準備してきた「一日修養会」として、新発寒教会の信徒の方々をお迎えし、教会の宣教の取り組みについてうかがいます。新会堂の建築を機に、積極的に地域への宣教の働きを進めてきています。どんな思いと願いによって、どういう準備や工夫をして、何をしてきているか、多くを学びとりたいと思います。
 新発寒教会の人たちからは、「わたしたちこそ、北部教会から学びたいと思っています」とも言われています。互いの交流から何が生まれてくるか、楽しみです。
 

2019年1月20日 (日)

北部日記 1月20日

◎先週、北海教区の年頭修養会が行われました。今回は札幌地区で実行委員会を組織し、1年以上かけて準備してきました。北海教区の中のさまざまな取り組みを分かちあうことを主眼として、講師も講演もないプログラムでしたが、大きなトラブルもなく、参加者からもおおむね好評だったようです。
 さて、今回の年修に、北部教会からは24名が参加、教会別では2番目に多い数でした。北部教会からはバザーの出店もありましたが、恒例の教区通信のクロスワードパズルの懸賞に、北部教会から当選者が多数。教会の“存在感”では随一だったかも!?
◎今年度、札幌地区では1月20日を地区礼拝交流の日として交換講壇を促しています。北部教会は、新発寒教会と交換講壇を行い、清水和恵牧師をお迎えします。
私が北海教区に着任した1992年当時に北海教区にいた牧師で、今も現役で北海教区で働いている牧師は数えるほどになりました。その数少ないひとりが清水先生です。先輩としていろいろなことを教えていただき、また共に労してきました。きょう、久しぶりに北部教会にお迎えします。交わりのなかでまた多くを教えていただければと思います。
 新発寒教会は、2年前に新会堂を建築しました。その後、新会堂を用いて、地域に向けたさまざまなユニークなプログラムを次々開催しています。人数も少なく、高齢化の影響もまぬかれてはいない教会ですが、その企画力や実行力に驚かされます。来週の「一日修養会」では、この新発寒教会の取り組みを学びます。信徒の方々がおいでくださり、教会の働きやその願いと祈りを分かち合ってくださいます。みんなでお迎えしましょう。

2019年1月13日 (日)

北部日記 1月13日

 2003年出版のノンフィクションを映画化した『こんな夜更けにバナナかよ』を見てきました。札幌を舞台に、難病のために車いすで生活している主人公を大泉洋さんが演じ、その日常を助けるボランティアとの悲喜こもごものエピソードをつづっています。障がい者の主体性と尊厳を、爆笑のユーモアと共に示す、よい作品でした。私も東京での学生時代、同じように車いすで生活している方のボランティアに入っていたことがあり、登場人物に共感するところが少なくありませんでした。
 主演の大泉洋さんが、演じた感想として「娘には『人に迷惑を掛けるな』と教えてきた。でも、人に迷惑を掛けることをそこまで恐れる必要はないのかな…と。自分一人でできないことがあれば助けを求める。逆に求められたときに助けてあげられる人になってほしい。もっと人の迷惑を許してあげられる世の中になっていけば良いのかな…」と語っています。これも味わい深いことばです。
 久しぶりに原作も読み返しました。主人公の鹿野靖明さんが深くかかわってきた、障がい者の権利を回復する運動についても詳しく書かれ、その問いかけや働きは、今もなお大きいことに気づかされます。
 実際の鹿野さんに、ボランティアとしてもっとも身近にかかわっていた一人が北光教会の高*さんでした。映画では萩原聖人さんが演じている、いつもカメラを携えている人物のモデルが高*さんでしょう。原作で用いられている写真の多くも高*さんが撮影したものです。
 鹿野さん自身も洗礼を受けたキリスト者で、葬儀もキリスト教で行われています。キリストの御手は、その人生をどう支えていたのでしょうか。

2019年1月12日 (土)

1月6日「召使は知っていた」

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2章1~11節) 

 今日は、教会の暦では「公現日」です。公現日に読まれる聖書箇所のひとつが「カナでの婚礼」の場面です。
 ガリラヤのカナで婚礼がありました。主イエスの母マリアにゆかりの家だったようです。その婚礼でぶどう酒が足りなくなるという失態がありましたが、主イエスが水をぶどう酒に変えたというのです。このできごとの意味を、召使の立場から考えてみましょう。
 召使たちは婚礼の裏方です。ぶどう酒が足りないと、まっさきに気づいたのは彼らだったでしょう。急いでマリアに相談すると、主イエスのことばを待ってそれに従うようにと、待機を命じられました。やがて主イエスが来られ、水がめに水を満たすようにと指示します。水を井戸から汲んできて6つの大きな水がめに満たすのはけっして軽い仕事ではありません。足りないのはぶどう酒なのに、こんなことをして何の意味があるか、と疑ったでしょう。しかし、それを世話役のところにもっていくとよいぶどう酒に変わっていました。それが主のみわざであることは、召使たちだけが知ることでした。
 婚礼は神の国を現します。神に招かれて神との永遠の絆に結ばれ、喜びと幸いがもたらされるはずだったのに、旧来の信仰のありかたではそれが満たされず、主イエス・キリストによってはじめてそれが完成されるのです。
 召使たちは、その主のみわざの奉仕者です。このままでは満たされないと気づき、主を待ち望み、そしてそのみことばに従って、徒労とも思えるわざを担うのです。しかし、その重くつらい働きは、主によって祝福へと変えられます。召使たち、奉仕者である教会は、そのことを知ることになるのです。新しい年、主に従い、そのみわざに携わっていきましょう。

2019年1月 6日 (日)

北部日記 1月6日

 ちょうど10年前の2009年1月6日は、教会の引越の日でした。
 教会が何年も祈りながら準備を進めてきた新会堂建築がついに実現し、前年12月のクリスマスイブには、まだ何もない新会堂でキャンドルサービスを行うことができました。年があけて1月4日には最初の主日礼拝を新会堂で行いました。
 その前から教会と牧師館の引越のための荷造りを進めていたのですが、6日にトラックで新しい建物に荷物を運びこみました。がらんとしていた建物に、さまざまな品が備えられると、いよいよここでの新しい歩みが始まる実感がわきあがってきました。
 当時のわが家は、こどもたちが小学1年生から中学一年生、いちばん物も多く、手もかかる頃で、そのわりに引越の手助けは期待できません。引越作業がはたして無事終えられるか、本気で心配になりました。実際、今思い出してもげんなりするくらい・・・。
 10年たって、教会もこの地にすっかりなじみ、近隣との関係もしっかり根付いています。教会には前の会堂での教会生活を知らない人たちも加わり、太平こどもの家のこどもたちはもちろんここを「こどもの家」として育ってきました。ここがみんなの「住まい」でもあり、やがて「ふるさと」となっていくでしょう。
 ところで、わが家では、この1月、ちょうど結婚25周年となります。といって、何をするわけでもないのですが、こどもたちの成長や、わが家のささやかな歩みにも記されている、神さまの恵みを少しでもかえりみるときとしたいと思います。

2019年1月 5日 (土)

12月30日「永遠の命」

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。 (ヨハネ3章16~21節)
 
 16節は、クリスマスの意味を端的に示しています。こどもさんびか49「かみさまはそのひとりごを」は、この句をもとに作られました。作詞者の由木康牧師は、「永遠の命を得るため」という聖書のことばから「新しい命を受けて いつまでも生きるためです」と書きました。「永遠の命」とは、「いつまでも生きる」という時間的なことだけではなく、「新しい命を受ける」こと、命の質が変わることを含んでいるのです。
 ヨハネ福音書5:24には、「永遠の命を得、死から命へ移っている」とあります。「移っている」は現在完了形で記されています。永遠の命とは、将来のことではなく、今、ここで、起こることです。今を生きる命が、死で終わるようなものではなくなっている、ということです。
 山浦玄嗣さんは、3章16節の「永遠の命」という句を、「いつでも明るくいきいきと生きる力」と訳しています。御子を信じる者が、病に脅かされ、死に直面しようとも、それに屈服することなく、なお明るくいきいきと生きる、そういう不思議があります。
 さて、永遠の命は「裁かれない」ことと関連します(5:24、3:17~18)。山浦さんは、3:18の「裁かれない」という語を、「善いも悪しいも言われない」と訳しています。神は、御子に頼る者を、いい悪いを言わず無条件で受け入れてくださる、というのです。そのように信じるとき、わたしたちはどんなときもいきいきと生きる力を与えられるのです。
 今年を終えようとしています。悔やまれること、至らなかったことが数々あります。それでも、神は御子を頼る者を無条件で受け入れてくださいます。その信頼が、新しい日々をいきいきと生きる力を与えてくれるのです。

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