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2019年2月

2019年2月24日 (日)

北部日記 2月24日

 先週、教団の会議の後、両親の住む栃木に向かいました。父が大きな手術を受けるのに立ち会うためです。
 父の病が明らかになってから、両親の所属する教会では、「サポートチーム」を結成し、代表の方がなにかと連絡をくださって、教会への送り迎えやちょっとした日常生活の手伝いなど、両親の生活をみんなで支えてくださっています。具体的な手助けは遠くの家族にとってはありがたく心強い支えですが、何よりも、何人もの方々が真剣に心配して共に祈ってくださっている真実な交わりに励まされます。
 手術は無事に終わり、翌日、集中治療室で面会したときにはだいぶ元気で会話もできるようになっていました。
 ほっとして帰途につき、千歳空港からの電車が札幌駅に近づいたところで、地震にあいました。緊急停車した電車の中で、ようすもよくわからないまま、ひたすら運行再開を待ちました。
 9月6日の地震の際、教会員の安否確認や教会会堂の被害確認など、とっさに適切な対処ができず、災害時に教会として何をすべきなのか、あらかじめ確かめておく必要性を痛感しました。役員会で相談し、2月24日の役員研修会の課題にとりあげることとしていました。その直前に再度の事態です。電車の中で動きがとれず、連絡もままならない中、何をしたらいいのかとほうにくれました。
 個人の生活にせよ、地域の災害時にせよ、助けが必要とされるようなことが起こった時、教会はどんな頼りとなるでしょうか。何をなすべきか、何ができるか、大きな宿題を与えられています。

2019年2月17日 (日)

北部日記 2月17日

 神学校に入った年の夏、東京の教会青年による道北の興部伝道所へのワークキャンプに参加し、現地解散の後、滝川に向かいました。小学生のときの教会学校の先生だった宮島利光牧師が、石狩空知地区の計画に基づき滝川で開拓伝道を始めていたのです。滝川の街の一画の、古い倉庫を改装した建物が「滝川本町伝道所」でした。床が少し傾いていて、宮島牧師は「ビー玉を置くと転がっていく」と笑っていました。
 4年後、神学校を卒業して思いがけなくも旭川豊岡教会に赴任した直後の教区総会で宮島牧師に再会しました。滝川本町伝道所が移転し「滝川二の坂伝道所」としてログハウスの新会堂を建築したことをうかがい、翌月の献堂式にぜひ来るよう誘われました。
 5月の日曜日の午後、献堂式のために旭川から車で滝川にたどりつくと、新会堂に入りきれないほどの人が集まっています。地元の滝川や石狩空知地区はもちろん、北海道の各地からこのために数多くの人たちが足を運んできていたのです。北海教区の「連帯」の実際に触れた、初めての経験でした。
 あれから二十数年たち、ログハウスの会堂はいっそう風格を増しています。牧師も代わり、2015年度に着任した石沢陽子牧師は、地域のいろいろな活動にもかかわってよい関係を築いています。一昨年の夏、滝川二の坂伝道所の礼拝に出席する機会がありました。10名に満たない人数でしたが、ログハウスの中で皆でテーブルを囲んで石沢牧師のメッセージをしみじみと聞く礼拝は、恵みゆたかなひとときでした。今日の交換講壇の機会にも、あのゆたかな恵みを携えて来てくださるでしょう。
  

2019年2月16日 (土)

2月10日 「知ることの代償」

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」(ヨハネ8章28~29節)
 
 8章12節以下の長いやりとりの中で、主イエスはご自身が何者であるか語っています(12節、23節)。それでもわからない人々の問い(25節)に答えて、「『わたしはある』ということがわかる(28節)」と言うのです。
 「わたしはある」とは、神の名のりです(出エジプト記3:14)。主イエスは、ご自身が神と等しい存在であるというのです。これが、ヨハネ福音書のみならず、聖書全体が証する信仰、わたしたちの信仰の主張です。
 しかし、この信仰は「人の子を上げたときに初めて」与えられるといいます。「上げる」 とは、十字架のことです。わたしたちが自らの手で主イエスを十字架で殺したとき、この方こそ神と等しい方であることを知るのです。わたしたちが信仰を得るための、いたましく、むごい代償です。
大切なものを失って初めて知ることがあります。かつて、北海教区ではいくつもの教会が解散・休止となりました。これを機に連帯が深まり、ゆたかな恵みがもたらされるのですが、失われたものは決して小さくありません。
 けれども、主イエスが「上げられた」のは、ご自身の、そして神の御心によるものでした。強いられてではなく、みずからご自身を差し出したのです。
わたしたちは、このようにみずからを代償として差し出す、多くの人々によって、大切なことを教えられ、導かれてきたのではないでしょうか。
 さらに主イエスの場合、「上げる」とは、十字架だけでなく、復活と昇天をも含む言い方です。人の手で十字架にかけられた主イエスを、神は復活させ、天に上げて、ご自身の栄光をあらわし、わたしたちに信仰を与えたのです。
わたしたちが、主イエスが何者であるかを知り、信仰を与えられる代償は小さいものではありません。しかし、それはわたしたちの罪にまさる神の栄光のわざにほかなりません。みわざをたたえ感謝しましょう。

2019年2月10日 (日)

北部日記 2月10日

☆インフルエンザが流行中です。身近な人たちが次々にかかってきていて、いつわが家にも到達するかと警戒中。お見舞いに訪れる病院でも「インフルエンザ流行のため、面会できません」というところが多くなっています。こどもの家でも、「家族が感染したり、お子さんが学級閉鎖になったりしたら、出席はご遠慮ください」と案内しました。教会の礼拝もおおぜいの人が集まる場ですから、感染の機会になりかねません。風邪かなと思ったら、どうぞ無理をせず、体調を整えてまたおいでください。
☆明日2月11日は、「建国記念の日」と定められていますが、これは国家神道の復権にほかならないと批判し、あえて「信教の自由を守る日」としている宗教関係者・市民運動団体も少なくありません。今年は天皇の代替わりが予定されています。それにともない、改元や即位儀礼など、天皇制とそれにまつわる神道儀式がクローズアップされ、これらが「日本の伝統・文化」として当然尊重すべきものとして演出されていくでしょう。しかし、この「伝統・文化」によって、かつて、そして今現在、抑圧や差別、不利益をこうむり、立場を脅かされる人々もあることは隠されています。わたしたちもまた、そこに立たされているのです。
☆次週は交換講壇として滝川二の坂伝道所の石沢陽子牧師をお迎えします。滝川二の坂伝道所のログハウスの会堂の建築の際、北海教区の青年や若手教職で丸太を整えた作業は語り草になっています。北部教会も毎年、宣教協力献金をお送りしています。今の牧師の石沢先生は、一見シャイなようで、芯の強いきっぱりとした方だと思っています。教会の交わり、また石沢牧師との出会いがゆたかに祝福されるよう願います。

2019年2月 9日 (土)

祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」 ヨハネ7章14~24節 


 同じキリストを信じ、同じ聖書を読んでいても、それをどう受け取るか、理解の食い違いが深刻な隔たりや対立、敵意をもたらすことがあります。
主イエスご自身も、信仰をめぐる対立の渦中におかれました。主イエスは、長く病にあった人を癒した(5章)のですが、それが安息日であったことが問題視され、ついには殺意が向けられるまでに至ったのです。
 7日ごとに仕事を休む安息日の掟は、そのころ非常に重要視されるようになっていました。もともと十戒にある掟ですが、時代がくだるに従って重要視されてきたようです。諸民族に支配されるようになった中で、安息日を守ることは神の民のしるしとされ、厳格にこれを守ることが神の御心に従うこととされ、そのためにこまごまとした定めが作られていきます。主イエスはこの安息日の掟をないがしろにしたととがめられ、神の御心にそむくものとして敵意をむけられたのです。
 ところで、十戒の安息日の掟には、「神は天地を創造し7日目に休まれた(出エジプト記20章)」、「エジプトでの奴隷生活から解放された(申命記5章)」という二つの根拠が記されています。安息日は、創造主のみわざを覚え、人間の解放を喜び感謝する日といえます。
 主イエスが病人をいやされたのは、神のみわざを示し、人間を解放することにほかなりません。実はこれこそ安息日にふさわしいできごとであり、主イエスはむしろ安息日の掟に示された御心に従ったといえるでしょう。
 神の御心は、人を束縛し、とがめ罰することにあるのではありません。むしろ、人を解放し、救いの喜びと感謝へ導くことではないでしょうか。
 わたしたちも、神の御心がどこにあるのか、戸惑い悩むことがあります。神の御心は、裁きと抑圧にではなく、愛と解放にあることを信じましょう。
 

2019年2月 3日 (日)

北部日記 2月3日

☆先週の一日修養会では、新発寒教会から3名の信徒の方々をお迎えし、教会でのさまざまな活動についてのお話をうかがいました。
新発寒教会では音楽活動にかかわる人が多く、さまざまなコンサートが開催されています。「音楽には人が集まります」とのこと。また、こうした活動のために、礼拝の後、みんなで課題について協議を重ね、それぞれができるところを担っていきます。「『記録をとる』のがポイント」との指摘も。そして、福音の伝道を願って力を尽くしても、その成果は「あせらずに主にゆだねる」とのことばも。刺激と励ましをたくさんいただきました。
☆今年度4月から一年間の予定で真駒内教会の代務者をつとめていました。毎月一回礼拝に赴いて説教と聖餐式、礼拝後の役員会を行います。その日の北部教会には外部の牧師をお願いしたり、信徒が証を担当したりしてきました。しかし、教団の役割を担うこととなったので代務の交替をお願いしたところ、さいわい2月から大倉一郎牧師がかわってくださることとなりました。代務者として一年の約束をまっとうできず、とくに牧師招聘を準備できなかったことを申し訳なく思っています。

2019年2月 2日 (土)

1月27日 「キリストの証」 


「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。  (ヨハネ5章31~36節) 

 今日は「新発寒教会の宣教の取り組みに学ぶ」として一日修養会を行います。昨年秋の札幌地区大会で地区内の4つの教会から、それぞれの活動について聞きました。いずれも教会員20~30名の小規模教会ですが、困難や不足にもかかわらず意欲をもって教会の使命と課題を担っていることに励まされました。とくに新発寒教会は、2年前に新会堂を建築して以来、次々にユニークな取り組みを元気に進めています。
教会にとって主イエス・キリストを宣べ伝えるのは根本の使命ですが、時代や地域、個々の教会の賜物や条件によって具体的な方法や形はさまざまですが、今、この地でわたしたちが何をなすべきか考えましょう。
 さて、ヨハネ福音書では、キリストを宣べ伝えることを「証しする」と表現します。「証しする」とは、もともと法廷で人やことがらについて証言することです。とくに、その人物が何者であるか証明し、あるいは信用を保証する意味もあります。今日の箇所も、主イエスが何者であるか、信用できるかどうかをめぐってのことばです。
 主イエスは、ご自身について証明するのは神ご自身であり、人からの保証は不要だ、ときっぱり言います。ところがいっぽう、「ヨハネの証」つまり人間の証も、「あなたたちが救われるために」用いるというのです。
「証しする マルチュレオー」という語が英語の「martyr 殉教者」の語源です。「証しする」とは、ことばで述べることにとどまらず、命をかけて、つまり、自分の生き方、あり方を通してなされることです。わたしたち一人ひとり、そして、教会が、どのように生きているかが「証」です。
もとより、主イエスを証しするのは本来的には神ご自身です。それでも主はわたしたちのつたない証をも用いてくださるでしょう。
 

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