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2019年3月

2019年3月31日 (日)

北部日記 3月31日

各国から日本キリスト教団に派遣されている宣教師たちが集まる宣教師会議が毎年3月に行われます。今年は山梨・清里で行われました。
「会議」といっても、議論して何かを決定するのではなく、それぞれの体験を報告したり現場の経験からの意見を交換したり、また周囲の散策や体験プログラムもおりこんだ、ゆるやかなプログラムです。もともとは、日本各地で苦労の多い働きをしている宣教師たちが家族ぐるみで集まり、ふだんは話す相手の限られる英語でぞんぶんに語り合い、心身をリフレッシュさせるのが大きな目的だったといいます。
 ところが、近年、英語圏からの宣教師は少なくなり、しかもその多くが学校で英語教育などに携わる「教育宣教師」で、実際に教会での牧会にたずさわっている人はごくわずかです。かわって増えているのが韓国からの宣教師です。韓国からの宣教師で、日本キリスト教団の教会の牧師として働いている方々は、もはや珍しくありません。今回の宣教師会議の参加者も、半数以上が韓国そして台湾からの宣教師でした。会合では、英語・韓国語・中国語・日本語が用いられ、欧米からの宣教師とアジアからの宣教師が、共通言語の日本語で語りあっている場面もあちこちで見られました。
 会議に参加してみて、とくに韓国の諸教会が海外伝道に力を注ぎ、中でも日本人への福音伝道に熱い志を抱く人々が少なくないことを知らされました。私の両親が所属する教会の牧師も韓国からの宣教師で、信徒たちの信頼を集めています。熱い信仰とすぐれた賜物を携えて海外から来られる宣教師たちに、日本の教会は今も支えられているのです。
 

2019年3月30日 (土)

3月24日 「道、真理、命」

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ14章1~7節)

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。このことばについて考えてみましょう。
 「道」は、単なる通り道ではありません。古代の国家は領域の支配のために道路網を整備しました。高度な技術と強大な権力で建設された道路は、地方の人々にとってははるかかなたの都から自分たちのところにまで伸びてきた、都の延長線であり、この道に立つことは、見たこともない遠くの都に立つこととつながっていたのです。
主イエスは、はるかかなたの父なる神に通じる道であり、それは神ご自身の延長線としてわたしたちのところにまで来てくださった神そのものです。わたしたちは、主イエス・キリストに触れ、出会い、導かれるとき、神ご自身と出会い、ふれあい、導かれるのです。
「真理」を辞書でひくと「ほんとうのこと」とありました。「ほんとうのこと」ではいないこと、「ほんとうではないこと」がはびこり、力をふるうことがあります。戦争中、「ほんとうではないこと」のために人生を曲げられ、損なわれた多くの人々が、戦後、生きるよりどころとなりうる「ほんとうのこと」を真剣に求めました。「真理」とは、生きる支え、よりどころであり、その意味で「命」に通じます。「真理」「命」は、「生きるよりどころ」「生きる力」のことと言えます。
そう考えると、「道」とは「生き方」ととらえることもできます。こういう意味の「道」は、日本で昔からいう「華道」「茶道」「武道」などの「道」に通じます。たんなる技術や知識を超えて、どう生きるかということを追求するのが「道」つまり「生き方」です。
キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」と告げます。キリストという生き方を生きるように励まされ、促されているのです。

2019年3月24日 (日)

北部日記 3月24日

☆先週、教会の全体協議会を行いました。毎年、この協議会では総会に先立って教会の活動内容や会計等について意見を交換し、それによって役員会で議案を整えていくことになります。
協議会では、今後さまざまな形で互いに支えあうことがいっそう重要になってくることを覚え、ふさわしい教会の新年度の主題について意見を出し合いました。いっぽう、教会会計の厳しい状況も指摘されました。また教会の働きを担う各委員会の働きを紹介し、委員を募りました。新年度にむけて、思いをあわせて一歩を踏み出す時となりました。
☆札幌地区の総会が行われました。新しく指方信平牧師が地区委員長に選出され、3期6にわたって委員長をつとめた板谷良彦さんが任を終えました。ご労苦に主のねぎらいを祈ります。
 地区総会では、自主活動団体の「札幌地区協会青年協議会」の活動について報告がなされました。毎年、集まる青年の顔ぶれは変わっていきますが、現在20名以上が名を連ねているということです。若い世代の成長が楽しみです。
☆先日のニュージーランドでのモスク襲撃事件で、弟が勤務するクライストチャーチの高校の生徒が二人、犠牲となりました。首相が高校を訪れ、また高校生たちが仲間の死を悼む集いのようすが日本のニュースでも報じられました。ニュージーランドの社会全体が悲しみに覆われていますが、それと共に、襲撃犯がもくろんだような排斥と敵対をきっぱりと拒む姿勢も明らかにされています。自分たちの社会がどうあるべきか、自分たちで作り上げていく意識の深さを感じます。

2019年3月23日 (土)

3月17日 「イエスの栄光」

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
(ヨハネ12章37~41節)

 主イエスがエルサレムに到着すると、群衆は王者を迎えるように盛大に歓迎しました(12~13節)。主イエスも、「栄光を受けるときが来た」(23節)と告げます。しかし、その直後、主イエスは群衆の前から姿を消してしまいます(36節)。群衆は「王者の栄光を受けるためにエルサレムに来られたのではなかったのか」と戸惑い、疑うのです。
 ヨハネ福音書は、ここでイザヤ書を引用して説明します。38節の句は、イザヤ書53章の冒頭の一句ですが、当時の読者は、これでイザヤ書53章全体を思い起こしたはずです。
 イザヤ書53章は、ある人物のことを語っています。「彼」のことを、人々は軽蔑し、見捨て、「彼」は苦しみ、打ち砕かれ、黙って殺されていきました。しかし、「彼」には罪はなく、人々が道を誤った罪を「彼」が背負い、みんなの身代わりとなって死んだのでした。「彼」は、それを自分の使命と自覚して理不尽な死に赴き、人々はそうとは知らなかったけれども「彼」の命と引き換えに生きながらえた、と述べています。
 主イエスが十字架で死んだ後、弟子たちは、このイザヤ書に記された「彼」こそ主イエスのことだったのだと信じました。主イエスの死は、人々の救いのためのみわざであったのだと理解したのです。
 ヨハネ福音書はそれを「イエスの栄光」と表現します。この栄光のためにこそ、主イエスはエルサレムに来られました。それを理解しないとき、主イエスの姿は見えなくなってしまいます。わたしたちは、この「イエスの栄光」をみることができるでしょうか。
 栄光を受ける主イエスは、またこの栄光に仕え、従うように促しました(23~26節)。わたしたちはイエスの栄光にあずかるものとなるでしょうか。


2019年3月17日 (日)

3月17日 北部日記

 ニュージーランドのクライストチャーチで凄惨な事件が起きました。事件の背景や犯人の動機はこれから詳しく明らかにされていくでしょうが、大きくみれば、いま世界にはびこる分断と憎悪の一環といえるのではないでしょうか。
 東西冷戦の終結後、インターネットなどの技術の発達で世界がいっそう緊密に結びつくグローバル化が進行し、人々の間の隔てが縮小して親密になっていくと期待されました。しかし、現実には、かえって人々の間の格差や分断が深刻になり、あちこちで隔てと敵意が広がっています。
 アメリカでは国境に壁をつくろうと本気で主張され、イギリスはEUからの離脱を決定、ロシアや中国では国内での管理や抑圧が強まり、中東や中米では内戦や治安の悪化でおおぜいが難民となって故郷から引き離されています。
 日本でも、今、韓国・北朝鮮や中国への敵意や憎悪をあおる言説がますますエスカレートしています。感情的で、事実を無視・歪曲する記事やニュース、出版物があふれ、いつのまにかそれを常識とするような社会の雰囲気が作り上げられていっています。
 ニュージーランドの事件はけっしてひとごとではありません。隔てや憎悪をのりこえる、ひとりひとりの日々の祈りとことばとふるまいとが求められています。
 

2019年3月16日 (土)

3月10日 「主よ、来て、ご覧ください」 東日本大震災記念礼拝

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
               (ヨハネ11章32~37節)

 主イエスの親しい友ラザロが死んでしまいました。葬り終わった後にようやく現れた主イエスに対し、ラザロの姉妹マルタとマリアは口々に「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21節、32節)と訴えます。助けてくれると信じた主イエスへの期待がむなしく終わった悲嘆と苦悩のことばは、主イエスの心に刺さったに違いありません。主が「憤りを覚え、興奮して」(33節)とは、意味がとりにくい語ですが、「息を荒げ、心ふるわせる」という、感情をあらわにされる主の姿をいうのでしょう。
 人々は、「主よ、来て、ご覧ください」と、村から離れた墓へのさびしい道を案内します。死の厳しい現実を、あなたが来てくださらなかったばっかりにもたらされた痛ましい現実を、しっかり見てください、という人々の思いに、涙を流し、悲しみの感情を隠さない主イエスです。
 東日本大震災で、多くの命が失われました。「主よ、あなたがいたのなら、こんなことにはならなかったでしょうに」という悲嘆と苦悩を、主は受け止めてくださるでしょうか。被災地の現実は今なお厳しいままです。「主よ、来て、ご覧ください」とも声をあげずにいられません。
 ラザロの墓に来た主イエスは、墓の入り口の石を取り除けるよう命じました(39節)。人々の暮らす世界と、横たわるラザロとを隔てる大きな重い石が除かれたとき、主は「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけラザロは新しく生きる者となったのでした。
 震災から8年たとうとしています。さまざまな支援活動が終わり、被災地の人々と遠ざかっていってしまうのでしょうか。しかし、主に促されて、なお隔てをとりのぞくようつとめるとき、主は、新しい命、新しく生きる力をもたらしてくださるのかもしれません。

2019年3月10日 (日)

北部日記 3月10日

 北部教会からも多くの方々がかかわってきた、東北教区の被災者支援センター「エマオ」は、今年度末をもって活動を終えます。先日届いたエマオのニュースレター『スローワーク』から、東北教区議長の小西望牧師のメッセージの一部を紹介します。
                *   *   *
 東北教区は話し合いを経て、被災者支援センター・エマオの活動を2018年度末まで継続してきましたが、それもいよいよ閉じていくことになります。これまでに関わった人は、ボランティアだけで9000人を超えます。本当に多くの人が「エマオ」を通じて繋がり信頼を交わしてきたことに驚きを感じます。もちろん失敗や課題もありました。がそのような欠けをもった私たちが8年を歩んでこれたことに、大いなる方の支えと導きを思います。
 当初のドロかきから最近の少人数のお茶っこまで、働きは被災状況と必要によって大きく変化してきました。以前にも書きましたが、ですから思い起こす被災者支援センター・エマオの姿は、関わった個々人において違っているのだと思います。センターとしての働きは閉じていきますが、その記憶と意義は連なった一人一人の中に溶け込み、これまでもそしてもしかしたらこれからも何らかの役割を果たしていくのではないでしょうか。荒浜に、石巻に、そして全国さらには世界のあちこちに「エマオ」の記憶を湛えた人たちが元気に歩んでいる、このことは大きな励ましであると思うのです。
 関わられたお一人お一人に、導かれた大いなる御手に感謝します。

2019年3月 9日 (土)

3月3日 「誰にも奪われない」

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ10章27~28節)

 幼いころ教会に通い、その後事情で何十年も教会から隔てられていた方が、高齢になってまた教会に通えるようになり、喜びあふれて礼拝をささげていました。「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主イエス・キリストのみことばのとおりです。
 ヨハネ福音書が書かれた頃、教会は迫害や苦難に直面していました。教会から引き離され、遠ざかる人々も少なくなかったでしょう。ヨハネ福音書の最初の読者たちは、そうした状況の中で「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主のことばを力強い励ましとして、また慰めとして聞いたのです。
 主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)とも言います。私たち自身の意志や決断、また弱さや困難な状況にかかわらず、主イエス・キリストご自身が私たちを選び、御手のうちに守っていてくださるのです。 
 今、わたしたちの教会でも、教会から引き離され遠ざかっている人々が増えています。高齢となり、体の衰えや生活の変化のために、礼拝に連なるのが難しくなっているのです。長く入院し、もはや会話もままならない方々もいます。しかし、たとえ自分では祈ることも聖書を聞くこともできないとしても、この人々が滅びることなく、ご自身の手から奪われることはないと、主は宣言してくださるのです。
 また、よこしまな力が、私たちを主の御手から奪おうとすることもあります。これから天皇の代替わりが予定されています。即位に伴って神道儀式が盛大に行われ、もてはやされることでしょう。わたしたちの信仰が脅かされるとしても、主の御手から私たちを奪い取ることはできないのです。 

2019年3月 3日 (日)

北部日記 3月3日

 先週、バザーの後、役員の皆さんにそのまま残っていただいて役員研修会を行いました。毎年一回、役員研修会を行い、その時々の教会の課題などについて集中して学んだり話しあったりしています。
 今回は、まず教会の葬儀についてとりあげました。これまで、教会での葬儀の際は、夜に「前夜式」を行って翌日午前中に「告別式」を行うことがほとんどでした。けれども、近年、他教会では家族の事情や種々の制約により、それ以外にもさまざまなパターンで葬儀が行われるようになってきています。今後、北部教会でも対応をせまられるかもしれません。
 続いて、災害時の対応について相談しました。先日も地震がありましたが、大きな災害のとき、教会員の安否確認など、どう対応すべきでしょうか。地震だけでなく火事や大事故の場合、教会で集会中の場合、急病人が出た場合など、緊急時にどう対処できるか、これまで教会として確認する機会はほとんどありませんでした。さらに、災害時に教会に避難してくる人がいるかもしれません。課題は多いのですが、まずはできるところから対応を考えていこうと話し合いました。
 最後に、新年度にむけて、とくに牧師の働きについて考えました。教団のつとめを担うために留守がちになり、平日の集会や活動、また牧会活動への影響は避けられません。教会の教会の事務的・実務的な働きで牧師が担っているものも多くあります。教会の働きをとどこおりなく進めていくために、役員はじめ信徒で働きを分かち合ったり作業を工夫したりしてみようと話しあいました。
 役員は、教会を担い牧師を支えています。どうぞお祈りください。

2019年3月 2日 (土)

2月24日「追い出される」

彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 (ヨハネ9章30~34節) 
 生まれつき目の見えない人を、弟子たちは、罪の結果だと決めつけます(9:2)。当時、障がいや病は罪に対する神の裁きと考えられていました。障がい者や病人には、体の苦しみやつらさだけでなく、「罪人」という偏見や差別が加えられ、一般の社会生活から隔てられてしまっていました。
 主イエスは、この人を見えるようにしたのですが、ファリサイ派の人々は、主イエスが神からの方だと認めようとしません。かえって主イエスを認める者を会堂から追放しようとします。会堂は、ユダヤ人の生活と信仰を支える、共同体の中心です。会堂から追放されるとは、神との交わりからも人との交わりからもしりぞけられることでした。
 ファリサイ派の尋問に対し、見えるようにされた人は、主イエスのことを「神から来られた方」と言い表します。それによって、外に追い出されてしまいますが、かえって主を信ずる信仰へと導かれるのです。
ヨハネ福音書が書かれた当時、教会は、厳しい迫害にさらされていました。追い出されても主イエスへの信仰を表明したこの人の姿は、ヨハネ福音書の最初の読者たちを励ましたでしょう。
 しかし、考えてみれば、この人は始めから「追い出され」ていた人ではなかったでしょうか。生まれつき見えなかったために、罪人とみなされ、社会から追いやられていたのです。しかし主イエスはそこにおいでになり、この人に働きかけ、ついに信仰へ導きました。追い出された者が、あるいは追い出されたところでこそ、主イエス・キリストに出会うのです。
 追い出され、取り残され、交わりから遠ざけられているような思いを抱えているでしょうか。けれども、その中でこそ、「あなたは人の子を信じるか」との主イエスのよびかけを聞くのかもしれません。

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