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2019年4月19日 (金)

4月14日「わたしである」

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18章1~11節)  
 主イエスの逮捕という衝撃の場面を、ヨハネ福音書は他の福音書とは違う語り口で描いています。
 裏切り者のユダは、敵の手の者たちを案内してきましたが、この場面をよく読むと、それ以上なにもしていません。ヨハネ福音書は、彼の裏切りを主イエスはあらかじめ知っており、それどころか彼の決断は主イエス自身の働きかけによるものであったように記しています(13章21、27節)。主イエスの十字架という決定的に重大なできごとをくわだて、成し遂げたのは、ユダではないのです。ユダヤの権力者たちでもローマ総督ピラトでもなく、ほかならぬ主イエスご自身が、父なる神の御心に従って成し遂げたみわざなのです。
 主イエスは敵を前に、「わたしである」と名のります。これは、モーセに対し、ご自身を「わたしはある」と名乗られた、神の名のりと同じです(出エジプト3:14)。主イエスは、捕らえられる場面で圧倒的な神としてのご自身を示しています(6節)。十字架の苦難は、神である主イエス・キリストご自身の意志であり、計画であり、みわざであることを示しているのです。
 主イエスが「わたしである」と名乗ったのはまた、弟子たちをかばい守り救うためでもありました(8~9節)。十字架の主イエス・キリストは、ご自身に属する者を、かばい守り救う神なのです。
 「わたしである」「わたしはある」とはまた、「わたしはいる」と訳してもかまいません。弟子たちには思いもよらなかった裏切りと苦難、恐怖と絶望のできごとのただなかに、神としてわたしたちをかばい守る主イエス・キリストが「わたしはいる」と宣言されているのです。
苦難のなかで、「わたしである」「わたしはある」「わたしはいる」と宣言される主イエス・キリストを見あげましょう。

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