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2019年4月27日 (土)

4月21日「傷の痛み」 イースター礼拝

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネ20章24~29節)

 主イエスの復活を容易に信じなかったトマスは、うたがい深いひねくれた人物と思われがちです。しかし、ヨハネ福音書の他の場面からは、むしろ純真でまっすぐな性格がうかがえます。危険な道に向かう主イエスと共に死ぬ覚悟を表明したり(11:16)、主イエスの行く道について尋ねたり(14:5)しています。トマスは、どこまでも主イエスについて道を歩んでいきたいと、心から願っていたのです。
 それなのに、けっきょく、主イエスの道をたどることはできませんでした。主イエスはひとり十字架におもむき、トマスはついて行くことができなかったのです。主イエスが十字架でこうむった手とわき腹の深い傷は、トマスにとって、主に従っていけなかった自分自身の弱さ、情けなさ、罪のしるしでした。その罪の痛みを誰よりも鋭く感じていたために、主イエスがよみがえったと喜ぶ他の弟子たちに対し、どなりつけるように「わたしは信じない」と言い張ったのでしょう。
 けれども、弟子たちに傷を示したとき、主イエスはくりかえし「あなたがたに平和があるように」と告げています(19~21節)。この主のことばには、傷をもたらした痛みを癒す力、罪を赦す力がありました。だからこそ弟子たちは、罪のしるしの傷をつきつけられながら、なお喜ぶことができたのです。
 トマスもまた、「平和があるように」という赦しのことばを聞きました(26節)。そのみことばの力によって、傷を負わせた痛みを癒され、罪の赦しを知ったトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と主をたたえたのです。
 赦しをもたらした主イエスは、こんどは弟子たちが赦しを携えていくように促し、遣わします(21~23節)。今、わたしたちも主のみことばを聞きます。傷の痛みを抱えていても、復活の主の赦しを信じ、携え、遣わされていきましょう。

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