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2019年5月

2019年5月26日 (日)

北部日記 5月26日

 先週月曜日の晩、札幌駅から高速バスで苫小牧に向かい、夜中にフェリーに乗りました。朝、八戸港からまたバスに乗り、3時間ほどで盛岡に。昼から2日間にわたって行われる奥羽教区総会に、教団の問安使として出席するためです。
 日本基督教団の各教区の総会には、教団の役職者(議長・副議長・書記・総幹事)が手分けして問安使としておもむき、教団の活動について説明し、また意見を聞くことになっています。これまで教団運営に対して批判の意見も挙げたりしてきたのですが、こんどは教団について弁明する立場となってしまい。どうにも居心地よくありません。それでも、奥羽教区は北海教区とは隣の教区として交流を重ね、見知った顔もおおぜいいます。温かく迎えてくださってねぎらいやいたわりのことばもかけていただき、初めての問安使のつとめを無事果たすことができました。
 総会には、かつて北部教会に客員として出席していたUさんが、議員として出席されていました。「北部教会の皆さんにくれぐれもよろしく」とのことです。また、山*さんが以前所属していた三本木教会から、昨年、山*さんを訪ねて北部教会の礼拝においでになったSさんも議員として出席されていました。
 総会が終わった後、盛岡駅からこんどは新幹線と特急を乗り継いで、なんとかその日のうちに帰宅できました。
 さて今週は、西東京教区・東北教区・関東教区の総会を順に訪れることとなっています。しばらく留守になりますが、ご理解ください。
 

2019年5月25日 (土)

5月19日「欲望からの解放」

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。(エフェソの信徒への手紙2章1~7節)

 2015年、国連で「持続可能な開発目標(SDGs)」が定められ、世界各国で取り組むこととなりました。冷戦後の世界を覆う資本主義経済は、人間の欲望を満たすために自由に経済活動を行うことをよしとしています。しかし、このまま経済活動が好き勝手になされていては人類社会は続かない、という危機感を背景にSDGsが定められました。そうした今日の課題を念頭に、きょうの聖書の箇所を読みます。
 1~3節では、欲望のままに行動することが、過ちと罪を犯し、死をもたらすことになるとしています。それが生来の人間のありようなのです。
 2節には「この世を支配する者」「空中に勢力を持つ者」「不従順な者たちのうちに働く霊」とあります。当時の人々は、天地の間には神に逆らい人を惑わすよこしまな霊がうようよしていると考えていました。今日の状況でいえば、人を動かす「欲望」そのもののことと言っていいかもしれません。
 しかし、キリストを復活させた神は、わたしたちを救い出してくださいます(4~6節) 。それは、わたしたちが何かをすることによってではなく、神の恵みとしてもたらされるのです(8~9節)。
 では、SDGsなどの取り組みや努力は無意味なのでしょうか。
 この段落の結論、10節では、わたしたちは神の備えた「よい業」を行うために造られたとあります。わたしたちは、欲望に従って行動するのではなく、神が準備してくださった、みこころにもとづく業を行って歩むのです。
 ここでは「欲望」が消滅するとは書いてありません。欲望は存在しているとしても、わたしたちは欲望の奴隷となって欲望に従うのではなく、欲望から解放されて自由になり、神に従って歩むものとなるのです。わたしたちは、そのようにして死と滅びから救われ、ほんとうに生きるものとなるのです。

2019年5月19日 (日)

北部日記 5月19日

 水曜日午前の祈祷会では、月刊誌『信徒の友』の記事から学んでいます。近年の『信徒の友』は意欲的な特集・連載が多くて読みごたえがあり、どの記事をとりあげようか迷うこともしばしばです。
 4月から新連載「シリーズ 性 LGBTから学ぶ」が始まりました。「LGBT」とは、同性愛者や性同一性障害など「性的少数者」のことです。最近、LGBTをめぐる社会的課題が話題となることも多くなり、ドラマやコミックでもひんぱんに取り上げられています。しかしキリスト教会では、とくに信仰とのかかわりでどう受けとめたらいいのか、戸惑いや違和感が大きく、むしろ反発や拒絶の反応もまれではありません。
 旭川にいたときのことです。かつて東京で地区の教会青年として共に活動していたひとりから久しぶりに「会いたい」と連絡がありました。駅前で待っていてもそれらしき姿はありません。ふと気が付くと、近くに、女装の彼がいました。「説明ぬきでこういう姿を示したのは初めて」と、幼い頃からずっと苦悩していたことを教えられました。また最近も、かつての同級生が体と心の性の不一致を抱えていたことを知らされました。「性」をめぐって、親しい人々からも自分自身を隠し、不安や苦悩を抱えている人々が身近にいることを実感しています。
 信仰と性について考えるための本を紹介します。実力ある執筆陣による『10代のキミへ いのち・愛・性のこと』(教団出版局)は、読みやすく、おとなが学ぶのにもよい本です。平良愛香牧師の『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(Gakken)は、著者自身の歩みを率直に示し、思いのこもっただいじな本です。一読ください。

2019年5月18日 (土)

5月12日「心の目」

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 (エフェソの信徒への手紙1章15~19節)

 芸術家やこどもたちは、目に見える表面的なものの奥に、それを超えたものを見てとる感性を備えています。「心の目」といっていいでしょう。『星の王子さま』に登場するキツネは、王子さまに「かんじんなものは目に見えない」と教えました。「かんじんなもの」とは「真実」であり、「神」ともいえます。
 聖書の神は、見られることを拒む方です。人間によって表面的に、浅はかに理解されることを拒むのです。神を知るには、「かんじんなもの」を見る感性、「心の目」が必要なのです。
 17~18節は、神を深く知るために心の目が開かれるよう祈っています。心の目が開かれると、「どのような希望が与えられているか」「受け継ぐものがどれほど栄光に輝いているか」「神の力がどれほど大きいか」を悟るようになります(18~19節)。今見えている現実、困難や絶望的状況の奥に、神の国の輝き、現実を超える神の力を見て、希望を見出すことができるのです。
 2月に召天された台湾の高俊明牧師は、弾圧の獄中で「サボテンと毛虫」という詩を書きました。とげだらけのサボテンに花が咲き、ぞっとする毛虫が蝶になるように、厳しい現実を超える希望をもたらす神の力を見たのです。
 神の力の大きさは、キリストを死者の中から復活させ(20~21節)、そのキリストを教会に与えて教会をキリストの体、キリストが満ちる場となさいました(22~23節)。わたしたちは、心の目が開かれるとき、復活をもたらす神の力を信じ、そして教会にキリストを見出すのです。
 預言者イザヤは、心の目によって、神の衣のすそが神殿いっぱいに広がっているのを見ました(イザヤ6:1)。わたしたちも、心の目が開かれる時、わたしたち貧しい人間の現実を超える神の力によって、この教会いっぱいにキリストが満ちているのを知るのです。

2019年5月16日 (木)

CSより

Photo

2019年5月12日 (日)

バザーのお知らせ

札幌北部教会バザーを行います。どなたでもお誘いあわせてBazaar190526s どうぞおいでください。

日時 5月26日(日)12:30~14:30
場所 札幌北部教会 

北部日記 5月12日

 数年前から、NHKの朝の「連続テレビ小説」いわゆる「朝ドラ」を見るようになりました。いま放送中の『なつぞら』は、北海道・十勝が舞台ということでも興味をそそります。でも、北海道民としては、オープニングのアニメ(女の子が動物たちと仲よく遊んでる)を見るたび、ついつい「キツネにさわるとエキノコックスに感染するかも」「母熊がこわいから子熊には近寄らないで!」と、はらはら・・・。
 ドラマそのものは出演陣の好演もあって楽しんでいるのですが、ひとつ、どうにも違和感をぬぐえない点があります。戦後まもない頃にしては、登場人物の身なりがよすぎるのです。自分のこどもの頃を思い出しても、自分もまわりの皆も、もっと地味でやぼったく、しかも、お下がりなど、着古してくたびれた服があたりまえだったように思います。それよりさらに前の時代のお話なのに、ドラマとはいえ、皆、着ているものがあまりにぱりっときれいでかっこよく、そこだけはどうもなじめません。
 昭和史を題材とした多くの著作があるノンフィクション作家の保坂正康さんが、「昭和という時代が〈同時代史〉から〈歴史〉に移行していくとき、〈同時代史〉の中では戦争反対の意味は皮膚感覚になっているから共鳴共感を得るが、〈歴史〉になるとその皮膚感覚は想像力に移っていく。想像力が欠如していたり、知識として戦争の本質を見抜けない者は、実にあっさりと武力行使を容認してしまう。今はそういう時代に入っている」と書いていました。みんな身なりも貧しく、でも戦争は絶対にいやだと思っていた、戦後の「皮膚感覚」はもはや遠くなった今の時代です。「想像力」と「知識」を、意識して獲得していかなければなりません。

2019年5月11日 (土)

5月5日「祝福と讃美」

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソの信徒への手紙1章3~7節)

『エフェソの信徒への手紙』の冒頭、挨拶に続いて神をたたえることばが記されます。3~14節は原文では一つの文で、「たたえられますように」という語から始まっています。原語では「エウロゲオー」ですが、これは「よいことばを言う」という意味で、人が神をたたえる「賛美」だけでなく、神から人への「祝福」、さらには名詞形で「贈り物」の意味でも用いられます。3節後半を直訳すると「天のあらゆる霊的な祝福(贈り物)で祝福する」となります。つまり、3節では「エウロゲオー」という語を重ねて、神と人とが「よいことば」をかわしあう、幸いなよい関係を描いているのです。
 その「祝福」「贈り物」とは、具体的には「神がわたしたちをご自分の子にしようと選び、定めてくださった(4~5節)」ということです。これは、「わたしたちキリスト者は選ばれた存在だ」といった優越感を表しているのではありません。他の人と何も違わないのに、なぜかわたしたちはキリストにつながり、教会に加わり、信仰の道を歩むようになりました。それはわたしたちが選んだのではなく、なぜか神がそう定めたとしかいいようのない人生のふしぎです。わたしたちはそれを神の祝福、贈り物とうけとめて神をたたえるのです。
 さて、6節にも「たたえる」とありますが、これは原語では「エウロゲオー」とは別の語です。同じ語が12節・16節にもあり、「神の栄光をたたえるため」という句が繰り返されています。よく読むと、いずれも「栄光をたたえるために」として、約束された神の御国をうけつぐ希望を語っています。
 わたしたちは、なぜかキリストによって神と結ばれ、教会に集い、神の子としての将来の希望を与えられました。今はわたしたちは個人的にも、また教会も、まだまだ問題を多く抱えています。しかし、将来の希望を信じ、神の栄光をたたえるに至る道をたどっているのです。 
 

2019年5月 7日 (火)

みんなでランチ

5月14日(火)の太平子どもの家「ほっと広場」は、今年度最初の「みんなでランチ」です。メニューは「ホットサンド&コーンスープ」。パンとチーズ、ケチャップ、スープはこちらで用意します(実費負担をお願いします)。そのほか、なにか中に入れたい具をおもちください。

2019年5月 5日 (日)

北部日記 5月5日

 先週日曜日の午後、北部教会の総会が行われました。議事はいずれもとどこおりなく審議・可決されましたが、そのなかで特に意見がかわされたのは、青年会の活動をめぐってでした。昨年度、青年会は人数も限られ、バザーや中標津伝道所へのコーヒー献金などの活動もままならず、今後、続けられないかもしれないという報告でした。それに対して、青年たちへの応援の声があいつぎました。
 翌日から北海教区の総会が行われました。総会に、中標津伝道所から信徒の小*議員として出席されたのですが、板*さんに「中標津伝道所も年度末の決算があやぶまれましたが、北部教会青年会からの献金で助かりました」と声をかけてくださったそうです。北部教会の青年たちの悩みや重荷は、しっかり実を結んでいたのです。
 教区総会では、2月に行われた教区の「韓国スタディツアー」の報告の時間がありました。ツアーに参加した高校生・大学生4名が次々に立って報告してくれたのですが、よく準備して自分の感性にもとづいて率直に語ってくれたことばは、総会の議場にあたかも春の風が吹きすぎたように、皆の心を大きく動かすものでした。青年たちの存在と発言には、教会をいきいきと生かす力があることを、うれしく体感しました。
 さて、教区総会では新しい教区の三役・常置委員が選任されました。教区でも着実に世代交代が進み、新しい若い人たちが働きを担ってくださるようになっています。これからが楽しみです。
 教区の役を離れたのを機に、大そうじをして、資料や書類をどっさり整理処分しました。こちらも少しはさわやかに新しくなるでしょうか。 

2019年5月 4日 (土)

4月28日 「成長する体」

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 (エフェソ4章12~16節)
 

 2004年度、15節の前半にもとづいて「語り合う」と教会の年度主題を掲げました。今年度は同じ15節の後半から「成長する体」と掲げたいと思います。
 使徒パウロは、教会という共同体を体になぞらえ、「体にはさまざまな部分があるように、教会もいろいろな者たちがみな結びあってひとつの生きた体となる」と教えました(ローマ12:4以下、コリントⅠ12:12以下)。16節でも同じことを述べていますが、ここにはさらに、その体が「成長する」ということが加えられています。そして、キリストの体の成長とは、教会共同体が「愛によって作り上げられていく」ことと言いかえられています。
 高齢化が進み、教会の礼拝出席者が減ってきています。成長どころか縮小しているようです。しかしその中で、互いに気遣い、訪ね、祈りあう愛の交わりはかえって深まっています。それは教会の「成長」と言えるでしょう。これからいっそう、「あらゆる節々が補い合って、しっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げられていく」(16節)ことを心にとめて歩んでいきましょう。
 さて、またこの「成長」は、「成熟した人間」(13節)「未熟な者」(14節)という語を用いてもあらわされています。
 「未熟な者(こども)」とは、その時その時の誤った教えにふりまわされるような状態です。教会は、いまこの時代の風に惑わされることなく、しっかり真理に立つことができるよう成長しなければなりません。
 教会が「成熟した人間(おとな)」に成長するということは、教会に「キリストが満ちる」ことと言えるでしょう(13節)。時代に流されずに真理に立ち、互いに補い合い組み合わさって、愛によって共同体が作られていくように、キリストに向かって、キリストが満ちるまでの成長をめざしましょう。
 

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