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2019年6月

2019年6月30日 (日)

北部日記 6月30日

 昨年9月、北海道を大きな地震が襲いました。わたしたちの教会では、これまで他地域での災害の支援に関わったことはありましたが、自分たちが大きな災害を経験したのは初めてのことでした。こうした緊急時に教会としてどう対応すべきか、じつはほとんど備えがなされていないことに気づかされました。
 まず、今回の地震のように、突然広範囲で襲う災害の場合、教会員の安否確認が急がれます。役員会で相談し、ある程度の手順を確認しました。場合によっては、安否確認の後、緊急の支援が必要になるかもしれません。
 地震だけではありません。「教会が火事になったら」「大雨で洪水になったら教会は大丈夫?」「集会中に誰かが倒れたら」「猛吹雪でとじこめられたら」などと、「緊急時」 もいろいろ考えられます。
 また、地震のような大きな災害が起こった場合、地域の人たちが教会に避難してきて、一定期間を過ごすようなこともあるでしょう。教会の災害時の働きについても考えておく必要があります。
 今日の午後、「災害時の対応」について教会懇談会を行います。「火事の場合の対応」「ハザードマップの確認」「教会員の安否確認の手順」などを聞いたあと、そのほかの課題など気になることなどを話し合います。
 今回は都合がつきませんでしたが、「救急救命の訓練」「AEDの使い方」など、まだまだ取り組むべきことはあるでしょう。少しでも意識を高めていくことで、大切なひとつの命を守ることにつながればと願います。

2019年6月29日 (土)

6月23日野外礼拝「こすずめも、くじらも」

主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て、越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ
地を這うものよ、翼ある鳥よ
地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ
若者よ、おとめよ
老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。
                    (詩編148編5~13節)

 野外礼拝を予定していましたが、あいにくの天気で外で礼拝ができません。それでも、神さまが創られた天地とそこにあるもの、草木や動物、人間をも思い浮かべて礼拝をささげましょう。
 詩編148編には、神さまが創った天地万物を次々にあげていきます。山や丘、木や獣、そしてさまざまな人間たち。そのすべてが神さまを賛美するようにうながしています。
 この詩編と同じように、創られたものを数えあげている讃美歌が、『こすずめも、くじらも』です。アメリカのヤロスラフ・ヴァイダ牧師が三十数年前に作った歌ですが、讃美歌らしくない斬新な歌詞です。
 2節を直訳します。「地震の神 嵐の神 ラッパの響きの神 創られたものはどのように災いを叫ぶのか、創られたものはどんなふうに救いを叫ぶのか」。「ラッパの響き」は、世の終わりと神の国の到来を告げるしるしです。恐ろしい災いに救いを求める叫びは、神の支配の実現を告げる叫びなのでしょうか。
 3節は「虹の神 十字架の神 からの墓の神」と歌い、人を滅びから救う神のわざを示します。4節は「餓えた者の神 病む者の神 放蕩者の神」とあります。人類社会が、放蕩息子のように神に立ち返るのを神は迎えてくれるでしょう。5節「隣人の神 敵の神 鎌の神」の「鎌」はイザヤ書2章4節「槍を打ち直して鎌とする」を示します。6節はこどもたちが「HOME」を得ることを歌っています。この世界が、未来の世代にとってもかけがえのない「家」「居場所」「ふるさと」であることを示しています。
 神さまが創ったこの世界は、恐ろしい災いや難しい問題をも抱えています。でも、神さまは、この世界こそ、未来の人類にもかけがえのない「HOME」としてくださっているのです。

2019年6月23日 (日)

野外礼拝は中止

本日は野外礼拝の予定でしたが、天候のため、野外ではなく教会で、11時から礼拝を行います。

北部日記 6月23日

 毎年6月に「野外礼拝」を行っています。何年か雨が続き、「野外礼拝はもうやめようか」との声もあったのですが、昨年は久しぶりに百合が原公園で行うことができました。
 野外礼拝の場所は、もうずっと「百合が原公園の芝生広場のサイロ展望台の前」としてきました。ところが、今年は、サイロ展望台のまわりが立ち入り禁止となってしまい、これまでの場所で行うことができません。とはいえ、広い芝生広場です。場所を見つけるのは難しくはありません。新しい景色の中で、神さまの創造のみわざを感じながら礼拝を献げたいと思います。
 さて、サイロ展望台が立ち入り禁止となったのは、昨年の台風21号および胆振東部地震の影響です。安全性があやぶまれ、のぼることも近づくこともできなくなりました。
 昨年の夏は、全国的に災害が続きました。大阪北部地震、台風21・22号、西日本豪雨、そして北海道胆振東部地震と、心が休まりませんでした。大阪北部地震からちょうど1年となる6月18日の夜、山形県沖地震が起きました。教会関係では特に被害は報告されていませんが、多くの人々が不安の中にすごしています。
 天地を創造された神さまのみわざは、美しい野山を作り、いのちをはぐくむ恵みを備えてくださっています。しかしまた、いのちを脅かし、災いをもたらす巨大な天地のいとなみもまた神さまの御手から離れたものではありません。わたしたちの思いを超えた神さまの力とみわざを前に、謙虚に助けと守りを願って祈るのです。
 

2019年6月22日 (土)

6月16日「神の家族、神の住まい」

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 (エフェソの信徒への手紙2章17~22節)

 今年度の教会の主題は、エフェソ4:16から「成長する体」としています。教会を「体」になぞらえているのですが、教会をほかのものにたとえる表現もあります。今日の箇所の「神の家族」もそのひとつです。
 18節に「御父に近づく」という表現があります。エルサレムの神殿では、身分や立場によって神に近づくことが制限されていました。しかし、主イエスは、誰もが神を「アバ 父」とよんで近づくことができるようにしてくださったのです。わたしたちは神と、親子の親しい交わりを与えられました。そればかりでなく、神との交わりを与えられた者たちが、互いに「神の家族」としてひとつの共同体を形成するのです。
それは当時の教会の人々の実感でした。ローマ帝国の発展にともない、伝統社会が変化して都市に流れ込んできた人々にとって、そこで出会った教会は、新しいきずなをもたらす「家族」だったのです。
 さて、ここではまた教会を建物になぞらえらえています。「主における聖なる神殿となる」とは、やはりエルサレム神殿が念頭にあるでしょう。エルサレムの神殿はローマによって破壊されて失われました。しかし、これからは教会が神の住まい、神殿となる、と宣言しているのです。ひとつひとつの石を積み上げて建物を建設するように、ひとりひとりが集められ組み合わされて教会という神の家族、共同体が建てあげられていくとき、そこが神の神殿となり、人はここで神に近づき、神を礼拝し、神と交わることになるのです。
 「霊の働きによって」(22節)という語は、土の塵で形作られた体に命の息が吹き入れられた創世記の場面や、建物に風のように聖霊が吹き込んだペンテコステのできごとを思わせます。集められた私たちの集いに聖霊が働くとき、教会は生きたキリストの体、神の家族、神の住まいとなるのです。

 

2019年6月16日 (日)

北部日記 6月16日

 教団のつとめで、この1か月ほど、あちこちに出かけています。
 バザーのあと東京に飛び、西東京教区の総会に出席。会場は母教会の国分寺教会です。なつかしい会堂で、案内された席は、ちょうど昔いつも座っていたあたり。ふと横を見ると、木の柱に古いひっかき傷のような跡があり、かすかに「そらち バカ」と読めました。昔の教会学校の生徒の誰かのしわざでしょう。なんだか心に刺さりました。
 仙台での東北教区の総会では、東日本大震災以来、さまざまに協力を重ねてきた多くの人たちと再会しました。会津放射能情報センターの片岡輝美さんも議員として参加していて、「北部教会と太平こどもの家の皆さんにくれぐれもよろしく」とのことでした。また土谷良泉牧師にもお会いしました。北部教会の人たちの消息をあれこれお伝えすると、なつかしそうに喜んでくださいました。
 関東教区はぐっと規模が大きく、大宮駅前のモダンなホールが会場です。ここでは神学校の同級生の牧師たちに久しぶりに会って、近況を報告したり、他の同級生の消息を伝えあったりしました。
 先週は、教団の「新任教師オリエンテーション」。この春、初めて教会に赴任した教師たちの研修会です。かつて、自分が新任教師だった時には、たしか七十人以上の参加者がいましたが、今回はその半分程度。それでも、思いのほか若くはつらつとした人たち、とくに女性の元気な教職が多いことを頼もしく感じました。
 出かけるのはなかなか大変ですが、行った先々で、懐かしい再会や新しい出会いを味わっています。

2019年6月15日 (土)

6月9日ペンテコステ礼拝 「聖霊の保証」

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
(エフェソの信徒への手紙1章11~14節)
 

 「ペンテコステ」は「五十日」を意味します。もともと、過越の祭から五十日後の収穫感謝の祭でしたが、後のユダヤ教では、イスラエルの民が神と契約を結んで神の民とされたことを記念し感謝する意味も重ねられるようになります。今、キリスト教会では弟子たちの群れに聖霊がくだった「聖霊降臨日」として記念されています。
 13節で「あなたがた」と呼びかけられているのは異邦人キリスト者たちでしょう。これまで、「神の民ではない」「神の国に入ると定められてはいない」とされてきた異邦人たちが、キリストにおいて真理のことばを聞きました。律法を知らず、自分には何もできなくても、神は愛してくださり、救いをもたらすという福音です。それを心から信じて、聖霊の証印を押されたのです。
 「証印」とは、持ち主を示したり品質を保証したりするための印です。神が「これは神のもの」として押す証印とは、洗礼のことと考えられます。
 洗礼を受けたときのことをふりかえってみましょう。何もできず、なさけないほど愚かで小さな自分が、なぜか洗礼に導かれ、「神のもの」とされたのです。これこそ「御心のままにすべてを行われる方のご計画(11節)」であり、聖霊の働きにほかなりません。ペンテコステは、わたしたちにとっても、「神の民とされた」ことを記念し、感謝するときなのです。
 聖霊は、「御国を受け継ぐための保証(14節)」でもあります。「保証」とは「手付」「前払い」のことです。救いの完成、神の国の到来はまだこれからのことだとしても、わたしたちは今ここで、その救いの恵みを味わい、生かされています。それが聖霊のもたらすもの、聖霊の保証にほかなりません。聖霊の恵みを覚えて感謝しましょう。

2019年6月12日 (水)

「札幌北部教会」の名前を記した文書について

6月初め、札幌市北区周辺で「日本キリスト教団札幌北部教会」の名を記した文書が配布されているとお知らせをいただきました。しかし、これは札幌北部教会が作成・配布したものではありません。

たいへん残念なことですが、文書の内容は、当教会が地域に伝えたいと願っているメッセージとは大きくかけ離れた内容です。誰が、どのような意図でこのようなことを行ったのか不明ですが、当教会のあずかりあずかり知らない文書に無断で名前を使用されたことに対し、法的措置も検討中です。もし、このような文書が他にも見いだされるようでしたら、ご一報ください。

2019年6月 9日 (日)

北部日記 6月9日

 子どものころ通っていた教会に、「こども文庫」がありました。絵本から小中学生向けの読み物まで、いま思い出してみてもかなり質の高い児童書がそろっていて、多くのよい本と出会いました。
 あとで知ったのですが、「こども文庫」に携わっていた人たちは、「こどもたちが本を読む習慣と力をつけて、やがて聖書を自分でしっかり読むようになってほしい」と願っていたそうです。
 キリスト教、とくにプロテスタントの信仰は、「自分で聖書を読む」ということを重んじます。聖書のことばを読み、ことばで信仰を学び、理解し、考え、そしてことばで信仰を告白し、祈り、証しを語り、伝えます。キリスト教が「ことば」の宗教といわれるゆえんです。
 しかし、キリスト教信仰の伝統には、「ことば」以外の要素もゆたかに存在してきました。神の力やそのみわざ、愛のみこころ、栄光や恵みを、ことばを超えて感じとるために、古来さまざまな手だてが実践されてきました。瞑想や沈黙の祈り、音楽や踊り、香りや色彩、光、さまざまなシンボル等々。先日、パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースが世界に衝撃を与えましたが、古くから礼拝堂もまた神を感じるような空間として建築されてきました。
 このように、ことばによらずに「神を感じる」感性や実践が「スピリチュアリティ(霊性)」として近年世界中の教会で注目されるようになっています。わたしたちの教会では、もっぱらことばによる信仰生活が中心ですが、聖霊は「ことば」以外の手段を通しても人に働きかけることができることを心にとめたいと思います。  

2019年6月 8日 (土)

6月2日教会創立記念日礼拝「教会は神の計画」

こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。(エフェソの信徒への手紙3章10~13節)

 50年前、学生紛争の時代、教会も大きな影響を受けました。真剣で激しい論争が起こり、それが厳しい対立や分裂となって痛ましい傷がもたらされました。この時代のつらいできごとが、わたしたちの教会の創立にも大きくかかわっています。
 当時の札幌北光教会でも激しい議論や対立が起こりました。それが牧師・副牧師・伝道師の間の食い違いや対立となり、教会総会で突然、副牧師・伝道師の辞任を求める決議が提出されました。このとき榎本栄次伝道師は「教会はどうあるべきか、神が何を望んでいるかをもっと議論してほしかった」と発言しました。
 やがて教会は分裂し、牧師たちは教会を辞任していきます。その中で榎本栄次牧師は開拓伝道に向かう決断をします。おそらく、北光教会での重くつらい体験を抱え、「教会はどうあるべきか、神が何を望んでいるか」を深く祈り求めながら新しい教会を形作ろうとしていったことでしょう。
 聖書は、神の秘められた計画に沿って、教会によって神の知恵、神の考えが示されたとしています(10~11節)。神の計画とは、これまで神から遠いと退けられてきた異邦人が、ユダヤ人といっしょに共同体を形成し神の救いの約束にあずかるものになる、ということです(6節)。対立し、隔てられていたものが共に神に近づくひとつの群れとなるのです。
 わたしたち札幌北部教会の歩みも、こういう神の計画に沿ったものです。こどもとおとな、障がい者と健常者など、隔てられていたものがひとつとなって神に近づこうとしています。
 紛争の時代に分裂していった教会も、今は共に交わりをもち、互いの礼拝を支えあっています。そこに神のふしぎな計画があるのです。

2019年6月 2日 (日)

北部日記 6月2日

 先週日曜日は教会バザーでした。この日の北海道は記録的な暑さ。準備の段階から、暑さでだれか倒れるのではないか、お客さんも出足が鈍るのではないか、食品がいたむのではないかとあれこれ心配がつのります。また、このところ教会でバザーに携わることができる人が減ってきて、とくに青年会の持ち場は人手不足が心配でした。
 それでも、ふたを開けてみれば、いつもどおりてきぱきと準備も進み、おおぜいのお客さんを無事に迎えることができました。青年たちもこのときばかりと駆けつけて屋台で汗を流します。この日、礼拝に初めて来られた方まで喫茶コーナーの売り子にかりだされていました。暑さしのぎに冷たいジュースを買ったら、「いらっしゃいませ。ありがとうございます」とにこやかにお礼を言われ、なんだか立場がまったく逆。
 今回も北部教会以外からも多くの出店をお願いしました。札幌元町教会・東札幌教会・新発寒教会はもうすっかり常連です。「今回は新商品がありますね」「教会のようすはどう?」と、会話がはずみます。また、いつもおなじみの「中標津伝道所チーズ」「道北センターはちみつ」など、商品を通じての交わりや支援も続いています。
 教会以外では、いのちの園・フェアトレード・NICO葉夢・こどもの家OB会などの常連さんのほか、今回、OB会の関係から初めてガールスカウトのコーナーも出店がありました。
 バザーは、ただ資金作りの手段というだけでなく、出会いと交わり、支援と連帯の場でもあります。さらに幅広く地域にも根付いていくことを願っています。

2019年6月 1日 (土)

5月26日「壁を壊す」

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。            (エフェソの信徒への手紙2章14~16節)

 30年前、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一されました。「隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにする」できごとでした。しかし、むしろ人は隔ての壁を築くことに熱心です。
日本では今、目に見えない壁が築かれています。隣国に対する敵意をあおり、退けようとする心の壁です。隣国だけでなく、社会の中の少数者など、自分と違う者を敵としておとしめ、敵意や嫌悪がむきだしにされています。
 新約聖書の時の「壁」は、ユダヤ人と異邦人の間の敵意でした。律法を大切に守り、神の民としての自己認識を深めたユダヤ人と、奇妙な生活習慣を保ち周囲に妥協しないユダヤ人を排斥する異邦人との間に、敵意という隔ての壁が築かれていたのです。
 しかし、神は、律法によらない新しい共同体を形作るよう導きます。主イエス・キリストの名のもとに集まる教会は、ユダヤ人にも異邦人にも開かれた共同体です。律法は廃棄され、ユダヤ人と異邦人と双方がひとつのキリストの体、共同体を形作るのです。
 しかし、教会は、その後の歩みの中でまた隔ての壁を作ってきてしまっています。さまざまな教派が分立し、今日の日本基督教団のなかにも、さまざまな隔てが生じてしまっています。
 キリストは、十字架によって敵意を滅ぼしました。敵意に対して壁を作って自らを守るのではなく、敵意を身に引き受けて十字架で死に、そして復活によって敵意を無意味にしたのです。
 人は壁を作ります。しかし、神は壁を壊します。わたしたちはこれからも隔ての壁を築いてしまうかもしれません。しかし、敵意という壁を壊してくださる神を信頼し、勇気をもって敵意をのりこえていきたいと思います。
 

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