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2020年1月

2020年1月26日 (日)

北部日記 1月26日

 わたしたちの教会では、日曜日の礼拝以外にも祈りの集いが多く行われています。
 朝6時の早天祈祷会は、榎本牧師の時代からずっと続いています。週日火曜から土曜の朝、夏冬のお休みをとりながらも、無牧師の時期にも中止せず続けられてきました。ただ、最近は牧師が出張で不在のために休みとすることもしばしばあります。どういう形で続けていくか、あらためて考える機会も必要かもしれません。
 水曜日の夜には聖書研究祈祷会が行われています。多くの日本の教会では、水曜か木曜に聖書を学び祈りを共にする機会をもうけ、主日礼拝に次ぐ主要な集会としてきた伝統があります。事情で日曜日に礼拝に出席できない人にとって、教会につながり信仰をやしなうだいじな場でもあります。
 月に2回、水曜日の朝10時から祈祷会を行っています。夜の時間には足を運びづらいという要望から始まった集会ですが、ここでは主に教会のじっさいの課題についていっしょに考え祈るようにしています。そのために今は『信徒の友』を用いて学んでいますが、このところ出席者は2~3名にとどまっています。
 時代の状況の変化と共に、集う人たちの事情も変わってきています。これからも共に祈り、ささえ励ましあって信仰の道をたどっていくために、各種の祈祷会をどのようにもつのがふさわしいでしょうか。今日の一日修養会の機会に、相談してみたいと思います。

2020年1月25日 (土)

1月19日「ゆるし、招く」

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章9~13節)

 
  主イエスは、徴税人マタイをご自分のもとに招かれました。当時、徴税人は神の律法をないがしろにし同胞を裏切る救いがたい罪人とされていたにもかかわらず、主イエスは彼を無条件で迎え入れました。それどころか、多くの徴税人や罪人たちと同席して親しく飲み食いを共にしていたのです。
 こうしたふるまいを、律法に厳格なファリサイ派が非難しますが、主イエスはホセア書6章6節を示して反論します。神が求めているのは、いけにえを献げて罪をあがなう儀式を形式的に執り行うことではなく、神のみこころを知り、愛と慈しみをもって共に生きることではないか、というのです。
 このマタイの招きの場面に先立つ9章1~8節では、主イエスが病人に罪のゆるしを宣言する場面が記されています。病気は罪に対する神のさばきと考えられていました。神から罪をゆるしてもらうために、律法では高価ないけにえを献げての儀式が定められていますが、そのように行うのは容易ではありません。すがる思いで運ばれてきた病人に、主イエスは、何を求めることもなく、「あなたの罪はゆるされる」と宣言したのでした。主イエスは、罪のあがないのいけにえも儀式もないままに、ゆるしをもたらす方なのです。
 何のあがないをなすこともできない罪人をゆるす方は、また、その罪人を「わたしに従いなさい」とご自身のもとに招く方だと福音書は示しています。のちの教会は、この徴税人マタイを福音書の著者とみなすようになります。ゆるしと招きの福音を示すのにふさわしい人物と考えたのでしょうか。あるいは、マタイと共に主のまわりに集い、飲み食いを共にする罪人の群れに、教会は自分たち自身を重ねたのでしょうか。
主イエス・キリストは今もわたしたちにゆるしと招きを呼びかけています。ゆるし、招く主のことばを受けとめましょう。 

2020年1月19日 (日)

北部日記 1月19日

 いまから25年前、1995年という年は、いま思うと日本の社会が大きく変化していく節目の年でした。
 1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。大災害として社会に大きな衝撃を与えただけでなく、その後に続く災害への対応の転機ともなりました。とくに、ボランティア活動が注目され、「ボランティア元年」とよばれました。また、地震で電話線が切れてしまっても携帯電話は通じたことから、携帯電話の普及が加速するきっかけともなりました。
 3月にはオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こりました。これ以降、宗教一般への不信や警戒が強まっていきます。また、これまで国家の安全をおびやかすのは他の国家との対立・戦争だと考えられていましたが、非国家組織による「テロ」への対応が注目され、治安政策が強化されていくことになります。
 この年はまた「戦後50年」にあたり、当時の村山首相がいわゆる「村山談話」を発表しましたが、そのほかにも戦争への反省を表明するメッセージがいろいろな団体から公表されました。いっぽうで、それに対する反発の動きも強まっていくことになります。
 秋には、アメリカついで日本で「ウインドウズ95」が発売され、パソコンが個人の生活に普及するきっかけとなりました。25年たった今、パソコンのない社会は考えられなくなっています。
 四半世紀の変化をふりかえりながら、これからの時代がどう変化していくのか、思いをはせるのです。

2020年1月18日 (土)

1月12日「失わない、隠さない」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章13~16節)

 日本では塩は海水から得るものですが、世界の多くの地域では地中から掘り出すミネラルの塊、岩塩が利用されます。それが「地の塩」です。そうした塊は、湿気にあうと塩化ナトリウムだけが溶け出し、「塩気がなくなる」ことがありました。見た目はかわらないのに、かんじんなものが失われてしまっているのです。
 主イエスのことばは弟子たちに、ひいては教会に向けられたことばでしょう(5:1)。教会が、形はあってもかんじんなものを失うことがないように、という戒めです。かんじんなもの、とはなんでしょうか。
 塩は、神への献げもののしるしでした(レビ2:13)。教会は、またそこに集う信仰者ひとりひとりは、神にささげられた者、神のものとしての自覚を失ってはならないのです。生涯を神にささげられたものとし、全人格をもって神のものとして生きる決意と覚悟こそ、きりっとした「塩味」です。
 主イエスは、「塩になれ」と命じているのではありません。あなたがたはすでに神にささげられているのだから、その「塩味」を失わないように、というのです。
 神のものとして生きることは、この社会においてなじみやすいものではありません。ときにまわりからきわだち、目につくことでしょう。しかし、それを隠すことのないように、とも戒められています(14~16節)。昔、塩をランプの油に混ぜ、灯火の明るさを強めたそうです。塩によって光はいっそう輝きます。それを隠してはならないのです。
 わたしたちが神のものであることをいっそうあきらかに示すとき、キリストの光が輝き、そして人々がそれを見ることでしょう。


2020年1月12日 (日)

北部日記 1月12日

 何年も前、E子さんから「私が死んだら、お葬式はぜひ先生にお願いしますね」と言われたことがありました。とっさに、「いやですよ、葬式なんて」と答えてしまいました。まだまだE子さんにはお元気でいてほしい、と言いたかったのですが、「牧師に葬式を断られた!」と驚かれてしまいました。もちろん、すぐにわかってくださったのですが、その後もしばしば「あの時は驚いたわよ」と笑い話のようにくりかえされました。そのたびに「ちゃんとやりますから」とうけおっていたのですが、それがとうとう現実になってしまいました。
 12月はじめに入院されてから、何度か病室をお訪ねしましたが、そのたびに、「お忙しいのに来てくださってうれしいわあ」とほんとうにうれしそうに迎えてくださいました。クリスマス礼拝の日の午後、病床聖餐式におもむいたときも、厳粛なおももちでパンと杯をいただき、そのあとで「ありがたいねえ」と笑顔を見せてくださいました。
 2週間後の1月5日、満84歳の誕生日に、しずかに息を引き取られました。
 秋ごろ、少し記憶が乱れてきた中で、「バザーの準備をしなきゃ」「ダシはちゃんととれたかしら」など、教会のことをいろいろと気にかけていたとうかがいました。まわりの方が、「E子さんが教えた通りにダシをとったそうですよ」と声をかけると、「よかった!」と安心されたそうです。
 キリストをすなおに信頼し、愛と喜びをもって教会に仕える信仰の生涯をまっとうされたのでした。

 

2020年1月11日 (土)

1月5日 「求めるもの」

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイによる福音書4章1~11節) 

 主イエスは、その働きを始めるに先立って悪魔の誘惑を受けられました。そういう形で、主イエスは、ご自身がこれから何のために、どのようにその働きをなすのか確かめられたということかもしれません。
 誘惑するものは、初めに「パンを求めよ」とそそのかしました。まずなによりも、いのちを養う食べ物を求めるのは、当然のことです。広い意味で「食っていく」ことは、生活の基本であり、また政治の使命でもあります。しかし主イエスは、「パンだけで生きるものではない」と示します。たとえ暮らしが物質的には支えられたとしても、人間が人間として生きていくために、求めなければならない大切なものがあるのです。
 悪魔は次に「神殿からとびおりて、自分が神の目に特別な存在であることを確かめよ」と促します。いま、自分(たち)は他と違う特別な存在であるという主張があふれています。「日本は特別な文化・伝統のある国だ」とか「○○ファースト」といった自己中心・自己絶対化がはびこり、衝突や争いをもたらしています。しかし主イエスはそうした自己絶対化を退けるのです。
 3番目は、権力と繁栄を求めよという誘惑です。この時代、国々の政治だけでなく、個人の人生でも「力と繁栄」を求めることがよしとされています。しかし、それは神ではない何かよこしまなものに仕えて自分を献げることになってしまうのです。
 わたしたちは、今なにを求め、なんのために生きようとしているでしょうか。聖書は、人間は神を求めて生きるよう促していますが、今の時代、そこからわたしたちを引き離す誘惑にいつもさらされています。しかし、主イエスはそういう誘惑を退ける方です。この方のもとに身を置いて誘惑から守られ、真実に求めるべきを求めるようこころざしましょう。 

2020年1月 5日 (日)

北部日記 1月5日

   クリスマスの光の中で、新しい年2020年を迎えられたことと思います。今年はどのような年となっていくことでしょうか。
 大みそかに、久しぶりにNHK紅白歌合戦をゆっくりと見ました。(視聴率は過去最低だったそうですが。) 最新の曲もあり、懐かしい歌もあり、いろいろ演出も工夫されていて、それなりに楽しめました。
ところが、紅組の大トリとして出演したMISIA(ミーシャ)さんのステージに、はっと驚かされました。ステージの真ん中に、大きな「レインボーフラッグ」が掲げられ、はでな衣装のダンサーたちが手に手にレインボーフラッグを持って踊りだしたのです。ステージの横でも他の出演者たちがレインボーフラッグをふって応援していました。
「レインボーフラッグ」は、赤・黄・青・緑などのストライプを並べた旗で、性的多様性を表し、「女」「男」ではわりきれないさまざまな個性の人々がそれぞれに尊重される社会を目指して差別や抑圧に抗する運動でシンボルとして用いられてきました。紅白歌合戦のクライマックスでひるがえった無数のレインボーフラッグは、「男は白組、女は紅組」という枠組み自体、もはや乗りこえられなければならないことを、あざやかにアピールしていたのです。
 この時代、個人の意思や自由よりも国家や社会を優先させようという力が強まってきています。それでも、そうした力に抗し、個の存在や自由・個性を大切にしようという思いや運動もまたねばり強くうねり続けています。新しい年に希望をもってふみだしましょう。

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