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2020年2月

2020年2月29日 (土)

2月23日「ゆるされているのだから」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
(マタイによる福音書18章21~35節)

 
 「主の祈り」を祈れない、という人がいました。「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という祈りで、「わたしは人をゆるしているだろうか」と、ことばがつまってしまうというのです。 
 「ゆるす」ことをめぐって主イエスがたとえ話を語りました。1万タラントンを免除してもらったのに、100デナリオンを容赦しなかった話です。
 労働者一日の報酬が1デナリオンでしたから、100デナリオンの借金というのはリアルに感じられる話です。このたとえ話を聞いた人たちの中にも100デナリオンの借金に悩んだ人もいたかもしれません。貸したほうにとっても、そう簡単に免除できる額でもありません。「ぜひ返してほしい」と迫ったとしても、特別ひどいことを言っているわけではないでしょう。
 いっぽう、1タラントンが6000デナリオンですから、1万タラントンは想像を絶する額です。そんな莫大な額を借りて何に使ったのでしょうか。そもそも、ひとりの家来にそんな額を担保もとらずに貸してくれる王様は、どれほど大金持ちで気前がよいのでしょうか。しかも、あわれに思って返済を免除してくれたというのです。そのような王のふるまいの前では、100デナリオンの貸し借りなど、まったく無意味です。もしもこの家来が王に対して、「私も100デナリオンゆるしました」と胸をはったとしても、こっけいなだけです。
 神の巨大なあわれみとゆるしの前では、人間のできることなど無意味に等しいかすかなものにすぎません。それでも神は、とるにたりない人間のわざに目をとめ、認め、喜んでくださるのです。「我らがゆるすごとく」と、無に等しい自分のわざを神の前に差し出すこともlゆるされているのです。
 自分がどれだけゆるすかではなく、わたしが神にゆるされ、受け入れられ、認められている存在であることに、心をむけましょう。

  
 

 

 

2020年2月28日 (金)

新型コロナウイルス流行への対応

札幌北部教会の3月1日の礼拝は、プログラムを短縮して行います。

聖餐式、および礼拝後のうどん食堂はとりやめとします。

 

2020年2月23日 (日)

北部日記 2月23日

教団の公報『教団新報』に、教団役員が順番に書くコラムがあります。最新号に、以下のような文章を載せました。(一部略)
               *  *  *
 冬が来た。寒さと雪の季節だ。
 雪はこちらの都合にあわせて降ってはくれない。仕事のつまった忙しい日にかぎって、どかっと降る。なんとか時間を見つけて教会玄関や駐車場、教会前の歩道も除雪する。
 さすがに日曜日の朝には、気遣って早く来てくれる教会員に作業をゆだねる。週日にも、自宅の雪かきを終えた教会員が駆けつけてくれることがあるが、基本、教会のまわりは牧師の仕事だ。
 10年ほど前、会堂を移転新築し百坪以上の駐車場も確保した。この広さに、それまで使ってきた除雪機では力不足。大馬力の除雪機の購入を決断して教会員みんなでこつこつ特別献金を貯め、古い除雪機を売却し、他の基金も取り崩して、三年前にとうとう新品を購入した。
会員数十名の教会には大きな買い物だが、それを生かすも殺すも牧師の働きぶりにかかっている。
 ところがこの冬、札幌は記録的な少雪。せっかくの除雪機が所在なさげにうずくまっているが、牧師はほっとしている。
*  *  *
 原稿を提出したとたん、まとまって雪が降りました。今週28~29日には町内の除排雪作業が行われる予定です。ご注意ください。

2020年2月22日 (土)

2月16日 「矢面に立つ」

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」 (マタイによる福音書15章1~11節)
 
 信仰にもとづいて少しでもよい生き方をしたいとこころざし、生活の隅々まで整えていくことは、それじたいは尊重すべきことです。ファリサイ派は、そのようにつとめた人々でした。神から与えられた律法に示された神のみこころに従って、人生のあらゆる場面を意識して整えようとしたのです。
 しかし、時代と共に律法ではさばききれない状況も出てきます。律法を現実に適応させるために解釈が発展し、それが「言い伝え」とされて律法同様に重んじられるようにもなってきました。
 けれども、一般庶民が、そうした律法や「言い伝え」を厳格に守るのは難しいことでした。主イエスの弟子たちが「言い伝え」を守っていなかったのも、特別なことではなかったでしょう。
 それでもファリサイ派や律法学者は、そうした弟子たちのありさまを口実に主イエスを非難しました。自分たちの至らなさのゆえに主イエスが責められることになって、弟子たちは身の縮むような思いだったでしょう。
 しかし、主イエスは弟子たちをかばい、ファリサイ派に反論します。ファリサイ派の人々はいっそう憤慨し、主イエスへの怒り憎しみをつのらせて、ついには主イエスを十字架においやっていくことになるのです。
 わたしたちも、自分のふるまいのいたらなさのゆえに、だれかを憤慨させ、つまずかせてしまうことがあります。自分で気にもしていなかったふるまいや、日常生活のなにげない言動が、思いもよらず他者を傷つけ、怒らせてしまうのです。それを厳しく指摘されれば反論もできず、身の縮む思いにすくんでしまいます。
 主イエスは、そんな愚かでなさけないわたしたちをかばい、矢面に立って責めをその身に引き受けてくださるのです。わたしたちは主の十字架のかげに守られています。かばってくださる主を信じ、感謝しましょう。 
 
  

2020年2月16日 (日)

北部日記 2月16日

☆先週の「信教の自由を守る2・11札幌集会」の講師の長尾有起さんは、教団から派遣されてソウルの教会で働いている宣教師です。気さくな語り口で若い感性からの鋭い指摘を数々示してくださいました。 「文在寅大統領は韓国では『中道』と評価されているのに、日本では『左派』とみられているのは、日本社会がそれだけ『右』に傾いているから」「日本の大手メディアの報道は、韓国の右派メディアの論説の翻訳」「日本人の中には、韓国を下に見る感覚が抜けていない」「それでも日韓の若者たちが歴史の問題にいっしょに向き合うことを通して友情をはぐくんでいるのが希望」など、はっと考えさせられています。実は、長尾有起さんのお父様は、私の青年会時代の先輩です。新しい世代の力に感ずるものがありました。
☆栃木の施設に入っていた祖母が102歳で亡くなりました。栃木で火葬にして遺骨を東京に運び、墓所のあるお寺で葬儀を行いました。昨年亡くなった父にかわってことを進めるのに、教会をほぼ一週間留守にして、札幌と東京・栃木を何往復かしなければなりませんでした。おかげさまで納骨までをぶじ終えてほっとしています。
☆昨日から、CSの小学生一泊お泊り会を行っています。近年、こどもの礼拝出席は少なくなっていますが、夏のキャンプや冬のお泊り会には小学生だけで20名以上参加しています。こどもたちにとって、教会の魅力はなんなのでしょうか。もしかしたら、わたしたち(おとなたち)が気づいていない、キリストのみわざが働いているのかもしれませんね。 

2020年2月15日 (土)

2月9日「謎」

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 (マタイによる福音書13章10~17節)
 

 主イエスは群衆に「種をまく人のたとえ」を語りました(13:1~9)。ところが、主イエスご自身はこれが「たとえ」であるとは言っていません。(「たとえを用いて語られた(3節)」と記しているのはマタイです。)ただの世間話のように、ごくありふれた農作業の光景を語っただけです。多くの人は、この話になにか意味が隠されているとは気づかず聞き流したことでしょう。
 ところが弟子たちは、「なぜ、たとえを用いて語るのですか(10節)」と尋ねました。弟子たちは、主がたとえ話をされたと気づいたのです。その意味がなんであるにせよ、なんということはないような日常生活を示すことを通して、主は何か深く大切な意味を伝えていると悟ったのです。
 主イエスは人々に教える際、さまざまな「たとえ」を用いて語りましたが、「たとえ」にもいろいろなパターンがあります。中には、たとえによってかえってわかりにくくなっているようなもの、「たとえ」なのかどうかかもはっきりしないようなものもあります。「たとえ」とは、表面的な意味の奥に、もっと深く大切なもうひとつの意味を示すものですが、奥に秘められた意味がすぐにわかるとは限りません。「たとえ」の中には、「謎」といっていいものも含まれているのです。
 主は、しばしば、たいせつなことがらを「謎」としてわたしたちに示されます。意味がわからず、はっきりした答が出ず、もんもんと苦悩するような人生の「謎」があります。しかし、それが主によって示された「謎」であり、そこにはきっと隠された意味があるではないかと気付くとき、そこからさらに多くのものを得られることでしょう(12節)。そのように気づき悟る弟子たちを、主は祝福してくださいます(16節)。わたしたちは主の示す「謎」に気づくことができるでしょうか。  

 

2020年2月 9日 (日)

北部日記 2月9日

 一昨年9月の胆振東部地震では、札幌市内でも液状化現象による被害がありました。教会にほど近いあたりでも道路の陥没などがあり、補修工事には一年以上かかっています。
 市内には、液状化で大きな被害をうけた住宅地もあります。住宅の撤去・再建や地盤改良工事など、住民は重い負担を強いられています。しかも、被害の状況は一律ではなく、隣家との被害の差が生じ、地域の交わりもまた複雑な影響を受けていたりします。
 地震の直後から、札幌YWCAがこの地域の支援活動を始め、その後、北海教区や札幌バプテスト教会なども協力するようになりました。当初は宗教関係者の活動を警戒するむきもありましたが、だんだん信頼されるようになり、交流会やコンサートなど、地域支援の働きが地道に続けられてきています。
 先週、公民館での「歌声カフェ」の活動に初めて参加してきました。地域の人たちが集まってくると、まずは音楽療法士の方がたくみにリードして、なつかしい歌をうたいながら、歌にあわせた健康法など楽しいお話もおりまぜます。1時間ほど歌ったあと、お茶とお菓子をいただきながらカードゲームや編み物などを思い思いに楽しみました。すでに地域の皆さんには顔なじみの北海教区の小西幹事はこの日が誕生日。「トム・ハンクスに似てる!」などとおだてられて(?)いました。
 北海教区の胆振東部地震支援委員会では、さまざまな人たちと協力しながら、長く支援を続けようと話し合っています。お覚えください。

2020年2月 8日 (土)

2月2日 「くびきを共に」

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」  (マタイによる福音書11章28~30節)
 
 疲れた者、重荷を負う者に「休ませてあげよう」とよびかける主イエスのことばは、人生に疲れた多くの人々に慰めと癒しを与えてきました。「休ませる」という語は、休息するだけでなく、それによって元気を回復するというニュアンスがあります。キリストは、人生の労苦を負うものを新たな力で立ち上がらせ、再び歩み始めることができるようにしてくださるのです。
 しかしそれは、もはや苦労も重荷もいっさいなくなるということではありません。「私は柔和で謙遜なものだから、私のくびきを負い、私に学びなさい」と告げられます。山浦玄嗣医師は、「私に学びなさい」を「俺のすることをよっくみて、覚えろ」と訳しました。「柔和」「謙遜」は、苦難や不当なしうちに耐え、十字架の屈辱の死におもむいたキリストのみわざを示しています。そのようなキリストの姿をよっくみて、覚えるよう促されているのです。  
 そのように重荷に耐えることは、また「くびきを負う」と表現されます。くびきは、2頭の牛に畑を耕す重い犂を引かせるための丈夫で重い木の道具です。牛がくびきを負って働くように、重荷を負って歩むよう示されます。
 植村正久牧師は、「主イエスは、ナザレの村大工だったころ、牛たちのために背負いやすいくびきをていねいに作っていたのでは」と想像しました。主イエス・キリストは、わたしたちそれぞれにあわせて負いやすいくびきを与えてくださるのではないでしょうか。
 くびきはまた、2頭で共に負うものです。わたしたちには、くびきと共に、いっしょにくびきを負うパートナー、同労者、教会の友が与えられています。そうやってくびきを共に負ってくださるのは、キリストご自身でもあります。キリスト(クリーストス)が与え、また共にになってくださるからこそ、くびきは「負いやすい(クレーストス)」ものとなるのです。

 

2020年2月 2日 (日)

北部日記 2月2日

 東京に出たおりに、教会学校・青年会時代の仲間たちと会う機会がありました。いちばんつきあいの古い友人は小学生のころから教会でいっしょに過ごしてきました。今はみんな、いいおじさんおばさんですが、会うとあのころと変わらず盛りあがります。それぞれの近況、昔の仲間の消息、いま通っている教会のようすなど、話は尽きません。
 その中のひとりは、ある教会の幼稚園で働いているのですが、こんなことを言いました。
 「幼稚園には100人も園児がいるけど、ひとりも教会には来ていない。年に何回か、『同時礼拝』といって、教会と幼稚園と、同時にそれぞれの場所で礼拝をする機会がある。幼稚園の礼拝には園児の保護者も来るけれど、教会の礼拝には行かない。教会員と幼稚園の全員が入れる場所がないので別々なのはしかたないけれど、なんとかならないかと思って、こどもと一緒の礼拝の機会を設けた。そうしたら、『こどもたちが来るなら、その日は礼拝を休む』という教会員がいた」。
 こどもがいたら、しずかに落ち着いて礼拝を守ることができない、ということでしょうか。
 でも、集まった私たちは、幼いころから、教会に育てられてきた教会のこどもたちです。「今ごろになってわかるけど、教会のおとなの人たちに、お世話になってきたのよねえ」としみじみ。
 北部教会に連なってきたこどもたちは、数十年後、どんなふうにふりかえってくれることでしょうか。

 

2020年2月 1日 (土)

1月26日「『わたしたち』の祈り」 一日修養会

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」 (マタイによる福音書6章5~13節) 

 今日、一日修養会で「祈りのことば」について学び考えます。
 主イエスは、「あなたが祈るときは(6節)」と、ひとり神に向き合い祈ることを教えました。ひとりの祈りは隠されたときです。他の人には隠された、神とのひそかな交わりです。どのように祈ってもよいのです。それがことばにならないうめきでも、神は受けとめてくださいます(ローマ8:26~27)。
 ところで主イエスは、続けて「あなたがたが祈るとき(7節)」について教えます。「あなたがた」つまり複数で集まり、共に祈るときのことです。そのようなときに祈ることばとして「主の祈り」を教えました(9節以下)。ですから、「主の祈り」には、「わたしたち」「われら」と繰り返されます。これは「わたしたち」の祈りなのです。
 だれかと共に祈るときには、ことばがだいじになります(コリントⅠ14:14~19)。他の人が理解して「アーメン」と言えるようなことばを用いなければなりません。
 共に祈るためのことばをあらかじめ定めている教会もあります。そういう祈りを「成文祈祷」「式文祈祷」といいます。それに対し、そのときそのときの自分のことばで祈るのは「自由祈祷」といいます。
 プロテスタント教会の多くは自由祈祷を重んじてきました。しかし、実際には自由祈祷といいながら、そのことばが形骸化したり、ひとりよがりの狭い祈りにとどまったりしてしまうことがしばしばあります。
 「主の祈り」に導かれるようにして、教会の歴史の中で、信仰の先達たちが多くのよい祈りのことばを残しています。きょう、そうした「祈りのことば」を学ぶことを通して、「わたしたち」の祈りがいっそう深められ、整えられていくことをめざしましょう。

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