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2020年3月

2020年3月29日 (日)

北部日記 3月29日

 オリンピックの延期が決定されました。これによって、政治・社会の状況が大きく変わってくると思われます。
 これまで、「オリンピックは予定通り実施」と主張するために、新型ウイルスの影響を極力すくなくみせることが必要でした。先に国会で「特別措置法」が可決され、政府が「緊急事態宣言」を出すことが可能になりましたが、もし「緊急事態宣言」を出したらオリンピックどころではなくなります。この夏にオリンピックを開催するためには、「緊急事態宣言」は出したくても出せない、というジレンマがありました。しかし、延期が決まり、もう「緊急事態宣言」の歯止めはなくなりました。
 はたして、延期の決定直後から、東京都では急に対策が強化されはじめました。ほんとうはもっと早くからはっきり対応すべきだったのに、オリンピック開催への影響を恐れていたのではないでしょうか。延期となったことで、ようやく大々的に対策をアピールし始めたようです。
 オリンピックの歯止めがなくなって、政府が「緊急事態宣言」を出したら、どういうことになるでしょうか。じつは、法的には「緊急事態宣言」の強制力はあまり大きくありません。結果的に有効な対応ができないこともありえます。すると今度はそれを理由に、「やっぱり憲法を改正して強力な『非常事態条項』を定めなければ」との主張が大きくなる可能性があります。
 ウイルスとオリンピックが、この国の歴史にとりかえしのつかない影響をおよぼすことになるのでしょうか。

2020年3月28日 (土)

3月22日 「恐れたために」

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。(マタイによる福音書25章14~19節)
 
 主イエスは、「タラントンのたとえ」によって何を教えているのでしょう。
 このたとえは、「主人」が不在の間、つまり主イエス・キリストが再びおいでになる「終わりの時」までをどう生きるのかを語っています。タラントン(=タレント、才能・賜物)をゆたかに与えられた者も、そうでない者もありますが、主人にしてみればタラントンの多い少ないは問題ではありません。10タラントン(数億円相当)でも主人には「わずかなもの」にすぎません。5タラントンをうまく用いた者も2タラントンの者も、まったく同じように喜ばれます。だから、人は、与えられている賜物を、それが何であれ精いっぱい用いて生きるべきだ、と受けとめていいでしょう。
 ところが、このたとえでは、むしろ3人目の失敗したしもべのことを詳しく語っています。たとえのポイントは、3人目がなぜしくじって主人に厳しく叱られたか、というところにあるのです。
 このしもべがしくじったのは、恐れたためでした。預かったお金の運用に失敗することを恐れ、そしてそれ以上に主人を恐れたのです。
しもべは、主人のことを「蒔かないところから刈り取る」方だと恐れました。でも、もしかしたらこのことばは、「実りの期待できない不毛の貧しいところからも、ふしぎにもゆたかな実りをおさめとられる」という意味かもしれません。わたしたちの知る主人、イエス・キリストはそういう方ではないでしょうか。しもべは主人のことを知っているつもりで、実はわかっていませんでした。主人を恐れてはいましたが、信じても愛してもいなかったのです。
 内村鑑三は、「後世への最大遺物」とは「勇ましい高尚な生涯」であると語りました。主が再び来られるときまで、恐れずに、神への信頼と愛をもって、なすべきつとめにたずさわっていきましょう。

2020年3月22日 (日)

北部日記 3月22日

 新型ウイルスの影響が世界中に広がっています。各地で人の移動や集まりを制限する措置がとられ、それによってキリスト教の日曜日の礼拝や、イスラム教の金曜日の礼拝にも影響が及んできています。

 早い段階で、韓国の「教会の礼拝」で集団感染がおこったと報じられ、キリスト教会に衝撃がはしりました。実際には、この教会は、かなり特異な形態の宗教団体で、礼拝も狭い空間に多くの人が長時間密集し、しかも信徒には感染を秘密にするよう命じていたということで、キリスト教会一般とはかなり様相が違うようです。

 現在、カトリック教会や聖公会は3月いっぱいの日曜の礼拝を休止しています。けれどもカトリックでは司祭による毎日のミサは行われていますし、聖公会でも牧師と家族のみでの礼拝は行うとのことです。これらの教派では、教会の礼拝はこうした教職者を中心とするものという考えがあるため、信徒が不在でも、神にささげる礼拝は行われているといえるのでしょう。信徒は、日曜日には各自で教会の定めた祈祷書による祈りのときをもつよう促されています。

 プロテスタントの多くの教会は、「信徒の集まり」こそが教会であり、礼拝の主体であるとの考えに立ってきました。歴史的にも、国家・社会が厳しい状況となっても信仰者たちが集まることを重んじてきました。そのため、かえって今回は対応に苦慮しているようです。それでも、「二人、または三人」で、ともにみことばを聞き、祈る機会を確保し続けられればと思うのです。

 

 

2020年3月21日 (土)

4月5日までの対応

新型コロナウイルス感染予防のため、当面の対応として4月5日まで礼拝プログラムを短縮して行います。

礼拝後のうどん食堂もありません。

礼拝出席の際は手洗い・消毒をお願いします。体調に不安をおぼえたら、無理せずお休みください。

万一、コロナウイルス感染が明らかになった場合は、すみやかに教会にご連絡ください。

3月15日「二つの愛」

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章34~40節)
 キリスト教のシンボルである十字架は、神にむかう垂直の方向性と人と共に生きる水平の方向性をあらわすと言われます。主イエスは、「神への愛」「隣人への愛」の二つの愛を同じく重要と教えられました。神への愛という垂直線と人への愛という水平線が一体となるところにキリスト教信仰がなりたっているといえるでしょう。
 そのように、神への愛と人への愛を一体のものとして生きた数多くの信仰者たちがいます。昨年アフガニスタンで命を落とした中村哲医師や、インドで人々につくしたマザー・テレサ、古くは「二つのJ」への愛を表明した内村鑑三など、神への愛を人への愛として具体化していった先達をわたしたちはまぶしく仰ぎ見ます。
 ところで、ある人が「隣人愛を欠く神への愛(宗教的情熱)は独善や錯覚に陥る危険がある」「神への愛は超越的な視点からの反省を人に与えるので、これを抜きにした隣人愛は自己愛の偽装となる危険がある」と述べています。隣人愛を欠くとき、信仰を真剣に掲げて人を損なうことが起こってしまいます。いっぽう、自分もまた神によって救われなければならない罪人であることを見失うとき、自分が他の人の救い主のようにふるまい、自分も人も苦しめることがあります。二つの愛は、単純に一体であるとはかぎりません。たがいに牽制しせめぎあうことがしばしばあります。
 わたしたちは、神への愛と人への愛をひとつのもととしてまっしぐらに生きることにあこがれますが、現実には二つの愛がせめぎあうはざまで、悩んだりためらったり戸惑ったりし続けています。そのように、キリスト教信仰は、二つの愛がせめぎあいぶつかりあう苦悩と重荷とを、十字架として背負いながら歩んでいくものではないでしょうか。

 

2020年3月17日 (火)

観劇会 中止のおしらせ

太平子どもの家では、毎年春休み中に「観劇会」を行っていましたが、今年度は残念ながら行わないことといたしました。
いずれ機会があれば開催したいと願っています。それまでどうぞお待ちください。

2020年度 こあら会 参加者募集

Koara2020 

2020年3月15日 (日)

北部日記 3月15日

 東日本大震災のおこった2011年3月11日は、太平子どもの家のこあら会の終了式の日でした。一年間のこあら会の活動をしめくくり、巣立っていくこどもたちを送り出す式を行って、そのあと親子で食事を共にして楽しいひとときを過ごしました。解散の時間が過ぎてもまだなごりを惜しむお母さんたちが二、三人残っておしゃべりをしていたとき、地震が起こりました。これまで経験したことのないような不気味な揺れ方で、しかも長く続くのが恐ろしく、こどもたちをあわてて抱きかかえたお母さんたちの不安げな表情を覚えています。
 あの日、卒業式を迎えていた学校も少なくなかったようです。晴れがましく希望に満ちた卒業式の直後、恐ろしいできごとに襲われ、将来を大きくねじまげられたこどもたちの心の痛みはどれほどだったことでしょうか。
 あの年に幼稚園を卒園して小学校に入った学年のこどもたちが、今年中学校を卒業する年となっています。その卒業式も、今年は新型ウイルスのために多く中止とされる事態になってしまっています。
 本来なら、うれしく、将来への思いをはせる時となるはずの卒園・卒業の機会が、人間の力ではどうにもならない恐ろしい力によってそこなわれてしまった経験は、こどもたちにどのような影響を及ぼすことになるでしょうか。残念な、悲しい思い出としてだけでなく、そこから何かだいじなことを見出す機会となることもあるかもしれません。こどもたちの将来に、思いを超えた導きがもたらされるよう、切に願います。

2020年3月14日 (土)

3月8日「母の願い」東日本大震災記念礼拝

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(マタイによる福音書20章20~23節)

 「ゼベダイの息子たち」とは、ヤコブとヨハネのことです。ガリラヤ湖の漁師でしたが、主イエスに従う弟子となっていました。彼らの母、つまりゼベダイの妻は、主イエスが天下をとったら息子たちを引き立ててくれるよう願い出ました。彼女はなぜそんな期待を抱いたのでしょうか。
 この直前、主イエスは、これから都エルサレムに行くこと、そこで苦難を受けて殺され、3日目に復活することを予告しています(17~19節)。ところがこれは、主イエスを信じ支持する人々には、主イエスが都でもついに支持を得て国全体を指導する立場になる宣言と受けとめられたのでしょう。その期待の中で、ゼベダイの子らの母も、息子たちの苦労がむくわれると、素朴な期待を抱いたのではないでしょうか。
 けれども、やがてエルサレムで主イエスは捕らえられ、ゼベダイの子らをふくむ弟子たち皆が逃げ去った中で、主はひとり十字架で無残な死をとげます。ゼベダイの子らの母は、その十字架を見届けることになります(27章56節)。悲惨な十字架のできごとによって、彼女が期待し願った息子たちの将来もうちくだかれ、たたきつぶされて失われてしまったのです。
 ところが、その後、主イエスは復活し、二人の息子たちもそれぞれに新しい生き方へと導かれていきます。母はそれをどう見ていたことでしょうか。当初の期待が打ち砕かれた失望と嘆きの中に過ごしたでしょうか。それとも、主イエスのことばが思いもよらなかった形で成し遂げられていくのを、おそれと信仰をもって受けとめるようになったでしょうか。
 東日本大震災の無残な恐ろしいできごとによって、多くの希望や期待が打ち砕かれました。このできごとをどう受けとめるのか、ゼベダイの子らの母と共に問われています。

2020年3月 8日 (日)

北部日記 3月8日

 新型ウイルスの流行はまだやまず、社会に深刻な影響を及ぼしています。札幌の街の中も閑散として、交通機関もがらがらです。
 教会の関係でも、いろいろな対応がなされています。札幌地区の諸教会の対応について、地区でアンケートをまとめました。おおむね、礼拝以外の集会はとりやめにし、礼拝は短縮して行ったりしています。礼拝そのものを休止したところは少ないようです。
 新型コロナウイルスには警戒しなければなりませんが、他の感染症にくらべて極端に危険とまではいえないようです。たとえば日本では毎年約3000人の方々がインフルエンザで亡くなっていますが、それと比べて今回のウイルスの感染力や致死率がけたちがいに高いというわけではなさそうです。感染しても発症しなかったり、発症しても軽症で終わることも多いとのことです。ただ、有効な薬がまだ開発されておらず、治療や予防の方法が確立していないために重大な事態となっています。
 病気そのものもさることながら、社会の反応、とくに政治の対応のまずさが問題視されています。高度に組織化された社会は、こうした思いがけない危機にはかえってもろいことがあらわになってしまっています。
 教会は、どうでしょうか。教会は、二千年の歴史の中、数々の危機のなかで礼拝を献げ続けてきました。疫病・飢饉・災害・戦乱・迫害といった、人々の命の危機と不安のなかでこそ、主の慰めと希望の福音が証しされ、伝えられなければならなかったのです。集まれる人が少なくなればなるほど、礼拝の意義が深まるともいえるでしょう。

2020年3月 7日 (土)

太平子どもの家について

太平子どもの家より
10日のほっと広場、13日のこあら会は、いずれもお休みといたします。
13日には今年度のこあら会の終了式を予定していましたが、日をうつして17日(火)10時30分からプログラムを短縮して行います。

 

3月1日「主の死を告げ知らせる」

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイによる福音書14章13~21節)
 
 マタイは、主イエスがパンを分けたできごとの冒頭に「これを聞くと(13節)」と記します。14章1~12節に記された洗礼者ヨハネの死の知らせのことです。マタイは、キリストの先駆けとしてのヨハネの死を背景として、パンを分ける場面を描いています。
 19節は、26章26節と同じことばづかいで「パンを取り」「讃美の祈りを唱え」「パンを裂き」「弟子たちに渡す(与える)」と記しています。26章は、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。パンを分けたできごとが、十字架の死を前にした最後の晩餐と意識的に重ねられているのです。
 「最後の晩餐」を、教会は聖餐式として伝えています。その中で読まれる聖書のことばに、「(このパンを食べ、この杯を飲むごとに)主の死を告げ知らせるのです」 (コリント一 11:26)とあります。「主の死を告げ知らせる」とはどういう意味でしょう。むごく恐ろしい主の十字架の死に恐れおののいているのでしょうか。主を殺した人々への恨みを忘れないためなのでしょうか。
 ここで思い合わされるのが、主イエスがパンをわけたできごとなのです。あのとき、むごくいたましいヨハネの死の知らせを告げられた中、主イエスは人々を憐れみ、向き合い、パンを分けてくださったのです。そのパンが弟子たちの手によって分かち与えられ、人々はそれによって満たされ、なおふしぎにもパンは食べつくされることなく、かえって増え広がったのでした。
「主の死」は、いたましく恐ろしいできごとに違いありません。しかし、主がわたしたちのために死んでくださった、そのことによって、わたしたちはいのちを与えられ、養われ、満たされてきました。わたしたちのために主は死に、それによって、わたしたちは生かされているのです。そのことを信じ、告げ知らせるのです。  

2020年3月 3日 (火)

3月2~8日の対応

新型コロナウイルス感染予防の見地から、3月2~7日、札幌北部教会では、予定されていた諸集会(祈祷会)をとりやめとします。
また、太平子どもの家も3日のほっと広場、6日のこあら会をお休みします。
5日に予定されていた「福島は語る」の上映会も中止とします。
8日の礼拝は、「東日本大震災記念礼拝」ですが、プログラムを短縮して行います。
礼拝後のうどん食堂はありません。

9日以降の対応については、後日おしらせします。

なお、15日礼拝後に予定されていた「教会全体協議会」も中止します。昼食もありません。

2020年3月 1日 (日)

北部日記 3月1日

 新型コロナウイルスの流行に、社会不安がつのっています。不確かな情報や、不安をあおるようなニュースに、多くの人々が落ち着かない思いになっています。さらには感染者やその疑いのある人、また特定の国や地域の人を排除したり侮辱的な扱いをしたりなど、不安が人の心の闇に力を与えるような状況にもなっています。祈りによって闇にたちむかいましょう。 
 教会の集会も感染の機会となってしまうおそれがあります。教団や北海教区でも注意をよびかけています。要点は以下のとおり。
 (1) 体調の不良を感じたら無理せず休む 
 (2) 手洗いを徹底する 
 (3) できればマスクをする 
 (4) 握手はひかえる 
 (3) 食事の機会はなるべくひかえるか、集まるのは短時間にして換気をひんぱんに行う 
 今日の礼拝はプログラムを短縮し、また予定されていた聖餐式もひかえることとしました。パンと杯という恵みのしるしが、かえって不安をもたらすものになってしまうとすればほんとうに残念です。
 道内の学校が休校となり、教区内でも各種の集会・委員会・会合が次々中止となるなど、かつてない事態が広がっています。心落ち着いて、しかし必要な対応ができるように祈りましょう。

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