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2020年4月

2020年4月26日 (日)

北部日記 4月26日 

 社会が、重苦しく息のつまるような雰囲気に包まれています。「いつまで続くのか」「これからどうなるのか」という不安だけでなく、「いつ、身の回りに命の危険がおよぶのか」「家族や自分は、はたして大丈夫だろうか」という深刻な恐れにとらわれています。身を守る確かなすべが見いだせず、頼れるてだてにすがろうと右往左往してしまいます。
 こうした心理状態は、おそらく、戦争中の人々の心理と共通するものでしょう。かつて、日々空襲の不安にさらされ、食料・物資の不足に悩み、家族を兵隊にとられ、いつまで続くかもわからない緊張の中に生きていた時代の人々の心を思います。解消できない恐怖や憤り、不満やいらだちが、周囲の人への攻撃をかりたて、「非国民」とののしったり、根拠もなく密告するなど、無数の暗いできごとが起こりました。
 戦争中の日本だけではなく、古今東西、危機の下の人間の状態には、共通するものがあるでしょう。聖書のことばは、こういう危機の状態の中で記され、そして読まれてきました。世の中や人の心が危機に揺さぶられるときにこそ、聖書のことばはふしぎにも力を発揮してきたのです。
 かつての戦争の時代、日本の教会は、外から内からの力に揺さぶられる危機の中、深刻な過ちも犯してしまいました。そうした痛恨の歴史を戒めとしてかたわらにおきながら、いま心が騒ぎ揺れ動くなかで、あらためて聖書に向き合い、その語りかけるメッセージに耳を傾けましょう。これまでの穏やかなときには聞き取ることができなかった、聖書の奥深く力強いことばを聞きとることができるかもしれません。

2020年4月25日 (土)

4月19日 「苦難の後で」

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイによる福音書17章1~9節)
 復活された主イエスがどのような姿で現れたのか、マタイ福音書には描かれていません。しかし、弟子たちにとって復活の後の主の姿がどのようなものであったのか、17章に暗示されています。
 主イエスと弟子たちがガリラヤで活動していたころ、あるときから主イエスはご自分が何者であるかを弟子たちに示し始めます。16章13節以下の場面では、弟子たちに「わたしを何者だというのか」と問いかけています。続いて、これからご自分が受ける苦難を語り始めました。そしてその後、3人の弟子を連れて高い山に登り、そこで光り輝く姿を示されました。
 ここに現れたモーセとエリヤは、「律法」と「預言」つまり旧約聖書を象徴する人物です。主イエスは、これまで神のみこころを示してきた律法と預言に並ぶ存在であることが示されたのです。ペトロが「ここにいるのはすばらしい」と感激すると、神が主イエスのことを「これは私の愛する子」と証ししました。主イエスが何者であるかが、こうしてはっきり示されたのです。
 しかし、弟子たちがこのことを語りだしたのは、復活の後でした(9節)。この3人の弟子たちは、主イエスがゲツセマネで苦しみもだえる姿を間近で見た3人です。主イエスの苦悩と苦難、そして復活を知って、彼らははじめて主イエスが何者であるのか、つまりこの方がほんとうに神の子であり、神のことばを示す方であると語り始めました。すでに知らされ示されていたことが、苦難と復活を経て、はじめてわかったのです。
 わたしたちも、そのように、主を知り、語ることになるのかもしれません。今の大きな苦難を経て、はじめて、これまでにも教えられ、示され、見聞きしてきたキリストのほんとうの姿、光り輝くキリストを見て、「ここにいるのはすばらしい」と語ることになるでしょう。

2020年4月19日 (日)

礼拝について

これからの札幌北部教会の礼拝についてお知らせします。

4月26日・5月3日・5月10日の礼拝は、非公開とします。教会員や一般の方々は来場しないでください。牧師と家族で礼拝をおこない、録音・録画を配信します。それ以降については、また連絡いたします。

 (礼拝の内容は、ときに教会員個人の事情や教会の課題に触れることもありますので、週報も録音・録画も教会員以外には公開いたしません。)

また、4月26日に予定されていた教会定期総会は、5月31日(ペンテコステ礼拝後)に延期します。

 

北部日記 4月19日

 新型コロナウイルスの感染リスクのある中、新年度の「太平子どもの家」の活動をどうするか、スタッフで話しあいを重ねました。感染予防のためには人と会う機会を極力減らすことが望ましいでしょう。しかし、こどもたちや、お母さんたちにとって、たとえわずかの時間でも家の外で楽しくすごす機会は、今だからこそ必要ともいえます。いろいろと考え、「活動時間は短縮」「食事はしない」「活動はできるだけ屋外で」「スタッフも限定」「おもちゃは消毒」「換気や手洗いの徹底」などの対策をとり、お母さんたちの実際の要望も聞いてみようということにしました。しかしその後、北海道が「緊急事態宣言」の対象地域となり、学校も休校となりました。こどもの家の活動も、しばらくはお休みすることにします。
 教会の礼拝も、皆で集まることがしだいに難しくなりそうです。日曜日の礼拝に行けなくなっても、なんらかの形で祈りをささげ、みことばを聞く機会をもてるように、以下のような方法を試みます。
 (1)日曜日の朝、その日の週報と説教原稿をFAXまたはメールで送る。
 (2)礼拝を録音して、礼拝後にインターネットを通じて録音データを入手できるようにする。
 (3)礼拝を録画して、インターネット上で見ることができるようにする。
 礼拝の内容は、ときに教会員個人の事情や教会の課題に触れることがありますので、週報も録音・録画も不特定多数に公開するのではなく、希望される方々にかぎってお知らせするようにします。希望者は牧師までお知らせください。  

2020年4月18日 (土)

4月12日「安かれ」イースター礼拝

 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイによる福音書28章5~10節) 


 主イエスが突然捕らえられて殺されてしまったことは、ずっと従って歩んできた弟子たちにとってどんなに大きな衝撃だったことでしょう。ガリラヤから期待と希望をもってエルサレムに来たのに、一夜にしてその期待も希望も奪われてしまいました。これまで主イエスと共に重ねてきた日々、今までの日常、これからの展望も将来も、突然失われました。
 今、わたしたちも、突然の状況におそわれています。これまでの日常、これからの展望、このまま続くと思ってきた日々が、突然うばわれて、うろたえ、恐れ、不安のなかにつきおとされてしまっています。
 主イエスが殺されて三日目、女たちが墓の前にたたずんでいました。彼女たちは、これまでの思い出や、後悔、憤り、悲しみ、そして絶望を抱えていたことでしょう。彼女たちに、「主はよみがえり、ガリラヤに行かれる」と告げられました。ガリラヤでの主イエスとの日々、かつての日常が回復される、失われたものがとりかえされるという知らせです。
 またそのとき、よみがえった主イエスご自身が、彼女たちに「おはよう」と声をかけました。「おはよう」とは、直訳すると「よろこべ」という意味の語ですが、当時のごくふつうの日常のあいさつです。以前の日本語訳聖書では「平安あれ」「安かれ」などとも訳されていました。朝起きて、親しい人々と何の気なしに「おはよう」と言いかわせることが、どんなに喜ばしく、心安らぐことだったか、いま私たちは思い知らされています。主の復活は、そういう日々の回復を意味するのです。
 しかしそれだけではありません。よみがえって再びガリラヤで弟子たちと会った主は、かれらに新しい出発を命じることになります。かつての日々が回復されるとき、それはわたしたちの再出発のときとなるでしょう。

2020年4月17日 (金)

おしらせ

太平子どもの家「こあら会」は、5月8日まで休止します。
その後については状況をみてお知らせしていきます。

「ほっと広場」も当面休止します。

 

2020年4月11日 (土)

4月5日 「それでも共に」

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 (マタイによる福音書26章36~39節) 

 
 主イエスは、捕らえられる直前、ゲツセマネで「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と祈りました。37節・38節の「悲しむ」という語は、「心痛」「苦しみ」という強いニュアンスの語です。主イエスは、死の苦難を前に、苦しみ悩んで祈ったのです。
 教会の歴史のはじめ、迫害による死に直面してもきっぱりと信仰を貫いた殉教者たちの姿が、あとに続く信仰者たちを励まし、あるいは新たな信仰者を生んでいきました。ところが、彼らが信じた主イエスご自身は、死を前に、苦しみ悩みもだえて「この苦しみを過ぎ去らせてください」と祈ったというのです。それだけでなく、3人の弟子たちにも共に祈るよう求めました。ひとりになって祈ることさえ恐れるような、よわよわしくおののく姿です。実際、キリスト教を迫害した人々は、こんな情けない男が神の子のわけがないとあざけったといいます。
 弟子たちも弱い者たちでした。共に目を覚ましているよう言われたのに、主イエスの苦しみ悩みを共にすることができず、肉体の疲れのままにねむってしまうのです。主イエスといい、弟子たちといい、このような弱くなさけない者たちから、どうして殉教者の信仰が生じたのでしょう。
 主イエスは、このとき「御心が行われますように」とくりかえし祈りました(39節・42節)。『主の祈り』のことばです。この祈りに導かれ、主は「立て、行こう」と、苦難に向かう心を定めるのです。
 教会が苦難にあうとき、苦しみ悩んだ信仰者たちは、ゲツセマネで祈る主イエスをもっとも近く感じたことでしょう。苦難の中の教会は、主と共に『主の祈り』を祈ったことでしょう。そして、どんなに苦難が厳しくても、神の御心がそれでも共にあると信じ、苦難に向かう信仰を与えられたでしょう。いま、苦難の中で、わたしたちも共に祈りましょう。

2020年4月 7日 (火)

イースター礼拝について

4月12日はイースター礼拝ですが、この数週間と同様、短縮プログラムでの礼拝をおこないます。

礼拝での聖餐式は行わず、聖餐を願う祈りをささげます。

礼拝の中で、こどもたちの進級進学を紹介し、また転入者を迎えます。

礼拝後の祝会、CSによるイースターエッグは中止です。

2020年4月 5日 (日)

北部日記 4月5日

 4月になりました。いつもの年なら、北国にようやく訪れる春の息吹に心はずむ季節なのに、今年は新型ウイルスへの不安におおわれて、春を楽しむ心もちになかなかなれません。
 先週、教団の会合にでかけました。羽田空港で迎えの車に乗って、東京の空気を吸わないように埼玉県の会場へ直行。途中の高速道路からは、墨田川の桜が満開のようすがよく見えました。花見にくりだす人はいなくても、桜はせいいっぱいに春を告げているようでした。
 札幌も、今年は雪も早く消え、あちこちで草木が芽吹いています。牧師館の前の花壇ではいちはやくクロッカスが咲きました。教会の前の歩道の花壇のチューリップも、日ごとに葉を伸ばしています。
 人の心が騒ぐときにも、季節のしるしはいつものようにめぐってきています。動揺する人間社会のありさまからひととき目を離して、自然のいとなみに心をむけてみましょう。神様のみわざは、今この時も、多くの命をゆたかにはぐくんでいることに気づかされるのです。
 次週はイースターです。讃美歌の歌詞がふと目にとまりました。
  「たたかいは終わり、主は死に勝たれた。
   主をほめたたえよ、ハレルヤ!
   主は敵を破り、死は今、滅びた。
   たからかに歌え、ハレルヤ!」   (『讃美歌21』 328番より)
 やがてこの讃美を心から共にできることを信じ、イースターを喜び祝う備えをしたいと思います。

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