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2020年5月

2020年5月31日 (日)

おしらせ 6月以降の礼拝について

<おしらせ>

主の御名を讃美します。
 札幌北部教会では、新型コロナウイルス感染予防のため、礼拝に集まらないようにしていましたが、6月7日の礼拝から皆様と共に集まって礼拝をささげることといたします。6月7日は北部教会の創立記念日礼拝です。また礼拝後には教会総会を開催します。

 なお、以下についてご承知おきください。
*礼拝は、当面は短縮したプログラムで行います。讃美歌は座ったまま歌います。
*健康に不安のある方は無理に出席する必要はありません。それぞれの場所で祈りをあわせてください。とくに、発熱など風邪の症状のある方は出席しないようにしてください。
*マスクを着用し、受付で手を消毒してください。換気のために窓を開け、椅子は間隔をあけて配置します。椅子は、つごうのよい場所に動かしてもかまいません。
*6月7日礼拝後、ただちに教会総会を開会します。短時間(1時間以内)で終えられるよう、4月に配布した総会資料をよくお読みになって、忘れずお持ちください。なお、昼食の用意はありません。
*礼拝後、当面は「うどん食堂」は行いません。また、祈祷会の再開については、ようすをみて判断していきます。
*礼拝の録音・録画および配信はひきつづいて行います。
*「太平子どもの家」も、6月第2週からの再開を予定しています。

現在、日曜日に礼拝についてファックスやメールで連絡を受けている方で、今後は不要という方はお申し出ください。

          2020年5月31日
           札幌北部教会
              役 員 会
              牧師 久世そらち

 

 

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北部日記 5月31日

 礼拝の最後の祝祷では、『コリントの信徒への手紙二』の末尾の句によって「・・・聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祈ります。
 「交わり」は、原語のギリシア語では「コイノニア」です。「コイノニア」とは、もともと「共にする」という意味からきていて、「わかちあい」「参与」「援助」といったニュアンスを含む語です。「聖霊の交わり」とは、具体的には「聖霊に共にあずかり、ひとつの聖霊をわかちあう関係、またその仲間たち」説明したらいいでしょうか。
 かつて、ペンテコステ(五旬祭)の日に、弟子たちに聖霊が与えられたときのことを、聖書は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(使徒言行録2:3)」と述べています。「炎のような舌」として現れた聖霊は、ひとりひとりに分かち与えられたのですが、それによって一同が新たにひとつに結ばれて、教会が形作られていきます。教会に加わるひとりひとりが共に聖霊にあずかるだけでなく、各地に生まれた諸教会もまた共に同じ聖霊をわかちあい、それゆえにひとつの交わりに結ばれていると信じたのです。
 『使徒信条』でも「我は聖霊を信ず・・・聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と述べられています。聖霊は、信徒たちを、そして諸教会を結び合わせる見えないきずななのです。
 今年は、イースター以降、いっしょに集まって顔をあわせることができないままに過ごしています。それだからこそ、見えない聖霊のきずなをいっそう深く信頼するように導かれるのではないでしょうか。

2020年5月30日 (土)

5月24日「信じる理由」

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマの信徒への手紙4章18~25節) 
 インターネットの時代となり、根拠のないまちがった情報も確かな情報も区別なく広まるようになってしまっています。いったい何を信じていいのか、ほんとうに信じられるのか、信じる根拠をよくよく確かめなければなりません。そんな私たちにとって、「信じる」とはどういうことでしょうか。
 パウロは、信仰の手本としてアブラハムを示します。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(4:3)」という句は創世記15:6の引用です。アブラハムは、子の無いまますでに年老いていたにもかかわらず、「子孫が星のように増え広がる」という神のことばを信じたのです。ありえないような希望を約束する神をアブラハムはなぜ信じたのでしょう。
 根拠は何もありません。根拠のないまま信じました。それが信仰です。
 わたしたちは、ことがらについては、信じられるかどうか根拠を確かめ、信じるに足る理由を追求します。しかし、人について、信じるか信じないかを問われるとき、その理由をどこまで確かめることができるでしょうか。
 NHKのドラマ「エール」で、主人公が結婚の約束をしたとき、周囲が「相手は財産めあてでは」とあやしむと、父親が「大丈夫だ、会えばわかる」とかばいました。客観的・合理的な根拠はなくても信じるのです。人を、人格を信じるとは、そういうやりかたによるのではないでしょうか。
神を信じるのも同じです。根拠を確かめて信じるのではなく、「会えばわかる」と、理由なく信じるのです。アブラハムは、そのように神を信じ、「義と認められた」、つまり、よしとされたのです。
 パウロ自身もそうでした。キリストに会い、ただそれゆえに信じるものとなったのです。それによって自分はよしとされたのだ、それがパウロの信仰でした。キリストと会った、会えばわかる、それが私たちの信じる理由です。

2020年5月24日 (日)

北部日記 5月24日

  先週木曜日は、教会の暦では「昇天日」でした。主イエス・キリストが、復活して40日にわたって弟子たちに現れた後、天に昇って姿が見えなくなった、という使徒言行録1章の記事にもとづき、イースターから40日目が昇天の記念日とされています。私たちの教会ではあまりなじみがありませんが、この日をこぞって祝うならわしの国もあるそうです。
  弟子たちにすれば、愛する主イエスがせっかくよみがえって現れてくださったのに、再びまた見えなくなってしまったことになります。がっかりしたり、悲しんだり、寂しがったりしても無理はありません。それでも、聖書には弟子たちのそんなようすは記されていません。主イエスが見えなくなったとしても、弟子たちには、まもなく聖霊が与えられ、さらにはいつの日か主は再び来られるという約束が残されました(使徒1:8,11)。弟子たちは、姿を見ることはできなくても、主イエス・キリストはこれからもいつも共にいてくださると信じたのです(マタイ28:20)。「見えないけれど、共にいる」「今は会えないけれど、いつかまた会える」という信仰が、その後の教会を支え導くことになります。
 さて、今、「キリストの体」である教会に集まることのできない状況が続いています。これまでは見えていた集いが、見えなくなってしまいました。必ずいつかまた元のような集いがもたれるでしょうけれど、いつになるのか、さだかではありません。でも、それまでの間も、見えない「キリストの体」はそこにあって、わたしたちは共にいるのです。「見えないけれど、共にいる」「いつかまた会える」ことを信じましょう。

2020年5月23日 (土)

5月17日 「正しい者」

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
(ローマの信徒への手紙3章9~18節) 
 「非常事態宣言」によって「自粛」が要請される中、「自粛していない」と非難攻撃する「自粛警察」といわれる動きが報じられています。戦争中の国策に従わない「非国民」への迫害や、関東大震災の際の「自警団」による朝鮮人殺害事件が思い起こされます。いずれも、権威ある「正しさ」を背負ってのふるまいです。「正しさ」をふりかざすとき、恐ろしい罪、醜い悪があらわれます。「正しさ」を背負う者が「正しい者」とは限らないのです。
 パウロは、律法という「正しさ」を背負うと自負するユダヤ人も決して「正しい者」ではない、と厳しく指摘します。10節以下で、旧約聖書から引用した痛烈なことばを並べていますが、神のことばとして絶対に「正しい」聖書の文言に、ユダヤ人は反論できないことを意図しているのでしょう。
 人は、危機の中でよりどころを求めて権威ある正しさにすがり、そしてそれを確かめるように他者を批判攻撃するのでしょう。「正しい者」となることで不安を解消しようとするのです。
 しかし、不安と恐れをとりのぞくのは、自分が正しい者となることによるのではなく、神のみわざによるのです。今年度の教会の主題に掲げたように、神は、苦難から希望を生じさせる方です(5章3節以下)。不安と恐れをもたらす苦難の中でも、ふしぎにも希望を生じさせるのが、神の愛です。愛を注がれて、希望が生じるのです。
 3世紀、ローマ帝国を襲った疫病は、キリスト教が広がるきっかけとなったといいます。感染の危険に身をさらしても病人の看病につとめたキリスト者たちの愛のわざが、人々の心をとらえたのです。
 今、正しさよりも、愛を求めましょう。正しい者であることよりも、むしろ正しくない者をも生かす神の愛によって生きることを求めましょう。

2020年5月17日 (日)

北部日記 5月17日

 教会の集まりも太平子どもの家の活動もできず、会堂は静まりかえっています。それでも毎日のように誰かしら教会にたちよってくださる方がいます。牧師室でひとり仕事をしているときに会堂のドアの開く音がすると、とびあがるほどうれしく、すっとんで出ていきます。
 先日、気がつくと包みがおいてあり、「久世様 お使いください。会社から送ってきた一部です。遠慮しないで! 9班のタイガーマスク」と書き添えてありました。包みをあけるとマスクの箱! 町内会のどなたかからのプレゼントでした。とてもうれしく、心が温まりました。
 ドイツ在住の作家の多和田葉子さんが「コロナ・テスト」ということをしています。わたしたちのこれまでの生活や社会のありかたが、この状況のなかでテストされている、という意味です。これまでに与えられてきたもの、あたりまえにあったものの価値や意味があらためて示され、また、わたしたちがつくりあげ、築き上げてきたものが何だったのか、あるいは私たちの心の内にあるものや、表に見えていなかった社会の実態も明らかにされてきています。思いがけないうれしいこと、ありがたいことに気づかされることもあれば、隠されていた弱点やほろこび、醜さや罪深さまでもがあらわにされてきてもいます。
 いつか、ウイルスの蔓延がおさえられ生活が落ち着きをとりもどしたとしても、「コロナ後」は、それ以前と同じにはならないでしょう。テストによって明らかにされた、よいもの悪いものと、どう向き合っていくか、ずっと課題としてひきずっていかなければならないのです。

2020年5月16日 (土)

5月10日「神の憐みを知る」

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(ローマの信徒への手紙2章1~9節) 
 パウロは、信仰について論じはじめますが、まず神を信じない罪を指摘します。どんな人間でも、この世界を見れば神の存在とそのみこころがわかるはずだ(1:20)、それなのに神を認めず無視した結果、人間の社会に罪と悪がはびこっている(1:28~32)、というのです。
 これを読んだ手紙の読者、つまりローマの信徒たちは、「そうだ、神を信じないことが罪を悪をもたらすのだ」「我々は神を信じているのだから、こういう人々とは違う」と思ったでしょうか。しかしパウロは、思いもよらないことに「あなたも同じことをしている」(2:1,3)というのです。
 「同じこと」とは何でしょうか。具体的な悪いふるまいというより、むしろ「人を裁く」ことにおいて、自分が神になりかわって裁き主の立場に立っていること、そうやって神をないがしろにしていることではないでしょうか。
 今の社会では、「裁く」、つまり、人の価値を定めていくことが当然のようになされます。裁きの矛先はけっきょく自分自身にも向けられて苦しみをもたらしています。わたしたちには、「裁く」以外の道はないのでしょうか。
パウロは、「神の憐みが、悔い改めに導く(4節)」と示します。神は正しさと厳しさをもって裁くだけではなく、深い憐れみをもって悔い改めをもたらす方でもあるのです。
 裁きは「自分は正しい」ことが前提ですが、悔い改めは「自分は正しくなかった」ことの告白です。主イエス・キリストは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えました。自分の正しさを神の支配にあけわたすことが、福音の始まりです。人を裁く正しさを追い求めるのではなく、わたしを悔い改めに導く神の深い憐れみを知ることを求めましょう。そのとき、ふしぎにも私たちは「信仰によって生きる」正しい者とされるでしょう(1:17)。

2020年5月14日 (木)

5月中の教会活動について

札幌北部教会の今後の予定についてお知らせいたします。


○ 主日礼拝は5月10日まで牧師と家族で 行ってき ましたが、同様の 方法 を5月31日 まで継続します。教会員や 一般の方々は来場しないようにしてください。
○ 祈祷会そのほかの集会も5月は休会します。
○ 5月24日に予定されていた、信徒の証礼拝および教会バザーは延期・中止します。
○ 5月31日はペンテコステ礼拝ですが、聖餐式その他特別なプログラムは行いません。
○ 5月31日礼拝後に臨時役員会を開催し、6月以降の礼拝について判断します。
○ 教会総会は5月31日に延期していましたが、再延期して6月7日に開催を予定します。
○ 太平子どもの家(こあら会・ほっと広場)も5月中は休止します。5月17日に予定されていた太平子どもの家後援会総会も延期します(日程未定)。

2020年5月10日 (日)

北部日記 5月10日

 「私は信仰が浅くて、ひとりで祈ったり聖書を読んだりできなくて」と相談されるたびに、「日曜日に教会の礼拝に来たら、それでいいんですよ」とお話ししてきました。ところが、今はその礼拝に集うことができなくなっています。先日から案内しているように、説教原稿をFAXで送ったり、インターネットで礼拝を見聞きできるように試みたりしていますが、そうした手段の届かない方々も少なくありません。礼拝を共にできないことは、ほんとうにせつないことです。
 でも、そういう今だからこそ、自分でみことばに触れ、祈る時をもつ、新しい機会となるかもしれません。ぜひ、一週間のうちにひとときでもそういう時を確保していただければと願っています。
 そのための手立てのひとつとして、ホレンコ(Horemco 北海道マスコミ伝道センター)の働きを紹介します。ホレンコは毎週土曜朝6時35分から数分間、HBCラジオ(1287Hz)で「喜びの扉」という番組を放送しています。これはホレンコのホームページでも聞くことができます。FMラジオカロス・サッポロ(78.1Hz 日曜朝8:45)、FMドラマシティ(77.6Hz 土曜朝10:45)でも別番組を放送しています。また、電話(011-736-0105)でも3分ほどのメッセージを聞くことができます。いずれも、札幌近郊の諸教派の牧師たちが交代で担当して録音しているものです。
 ホレンコは、広大な北海道で放送による伝道を進めようと60年前に設立されました。今この事態のなかで、思いがけず多くの人を励ます力となっています。

 

2020年5月 9日 (土)

5月3日「力になりたい」

 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(ローマの信徒への手紙1章9~12節) 
  今の状況の中、しばらくローマの信徒への手紙をかいつまんで読みながら福音のメッセージを聞きたいと思います。
  パウロは、ローマ在住のキリスト者たちにあてて、これからそちらに行きたいという希望を伝える手紙を書き送りました。ローマに行く理由として、「会って、あなたがたの力になりたい、いや、互いに励ましあいたい」(11~12節)と述べます。信仰者どうしで顔を合わせて賜物を分ちあい、力づけられ、励ましあう、信仰の交わりの理想的なありかたが示されています。
  そんなふうに会って励ましあうことの意味や大切さを、いま私たちは思い知らされています。会うことができないのは、どんなに寂しく心細いことでしょう。とくに、力づけられ励まされる必要のある人ほど、会うことが難しくなってしまっているのが現実です。
  先週、Kさんが天に召されました。感染症予防のためにと、病院で面会ができなくなり、ご生涯の最後の日々、いちばん支えが必要なときに力になることができませんでした。
  パウロは、ローマ行きがかなわない状況の中で、いつかローマに行く機会が与えられるよう祈りつづけました(9~10節)。私たちも、今この日々に、いつかまた会って励ましあうことができるようにと祈り続けましょう。神さまはその祈りを聞いていてくださいます。
  もうひとつ、パウロがしたことが、手紙を書くことです。直接会うことができなくても、自分に与えられた賜物をわかちあい、ローマの信徒たちの力になるようにと、せいいっぱいの思いを手紙にまとめて書き送りました。それが、今日まで多くの信仰者たちの力になってきているのです。私たちも、せいいっぱいの思いを送りあって励ましあいましょう。

 

2020年5月 3日 (日)

北部日記 5月3日

 長く入院されていた、教会員のKさんが、4月29日、88年のご生涯の歩みをしずかに終えられました。
 Kさんは、若いころカトリックの学校の寄宿舎生活を送る中で、修道女の方々の指導を受けたのがキリスト教との出会いであったといいます。戦後、さらに求める思いを強める中で、寄宿舎生活と日常生活がかけはなれているのでは、と矛盾を感じて、友人と二人で早朝、プロテスタントの札幌北一条教会に押しかけ、牧師に「信者にさせてください」と申し出たそうです。牧師にはやさしく「日曜日の礼拝にいらっしゃい」と促され、しばらく通いましたが、寄宿舎を抜け出しては別の教会に通うのが大変問題視されたそうです。
 卒業・就職し、嫁ぎ先が仏教の家だったために教会から遠ざかっていたのですが、家の近くにできた札幌北部教会の太平子どもの家にお孫さんが入園したのをきっかけに、北部教会に通うようになりました。「自分勝手と思いながら、とても出入りのしやすい教会で心にひかれることも多く、黙って入り黙って帰るという形の礼拝をするようになって」と述べて、1996年のクリスマスに洗礼を受けました。
 その後、しずかに信仰を守り、とくに太平子どもの家には思いを寄せてくださっていました。4年ほど前からずっと入院し、一時は気持ちも落ち込んでいたのですが、お見舞いしてお祈りすると喜んで「アーメン」と声をあわせてくださるときもありました。Kさんの魂は、若いころから導いてくださった主の御手の内にあると信じます。

2020年5月 2日 (土)

4月26日 「苦難から希望を」

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5章1~5節)
 
 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という句はよく知られています。「苦難に耐えれば、きっと希望がうまれる」ということでしょうか。
 「苦しさに耐えてがんばれば、きっとうまくいく」という考えは、日本では明治以降に定着し、日本の近代化や戦後の高度経済成長を支えてきました。しかしそれは裏返せば、「人生がうまくいかないのは、本人の努力が足りないからだ」という冷たい自己責任論となり、多くの人を苦しめてきました。聖書が「苦難は・・・希望を生む」というのも、けっきょく同じことなのでしょうか。
 このことばを記したのは使徒パウロです。晩年になって、それまでの苦難に満ちた生涯を振り返って、このことばを記しています。数多い苦難をかえりみるときに、しかし、彼は、ふしぎにもそうした苦難から絶望や後悔、恨みや不満ではなく、希望が生じた、とふりかえっているのです。
 このふしぎをもたらしたのは、神の愛です(5節)。主イエス・キリストによって、神との間には平和が与えられていますから(1節)、どんな苦難も神のさばきや罰ではないかとおびえることはありません。かえって、「神の栄光にあずかる誇り」(2節)が与えられています。つまり、自分は神のものとされていることを信じて喜んでいるのです。自分の努力ではなく、神の愛が、苦難から希望を生じるというふしぎをもたらしたのです。
 そのことは、パウロ一人の経験ではありません。パウロと共に、そのことを「わたしたちは知っているのです(3節)」。
 いま、わたしたちは、大きな苦難の中にあります。社会も教会も、多くの困難や苦悩を抱えています。しかし、わたしたちは知っています、神はわたしたちを愛し、この苦難の中に希望を生じさせることができるのです。
 このことを信じ、今年度の教会の歩みの主題としたいと思います。

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