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2020年6月

2020年6月27日 (土)

6月21日「復活を生きる」

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙6章11~14節)
 パウロは、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下される」(5章16節)と記しました。「じゃあ、何をしてもいいのか?」という疑問が生じます。どんなに多くの罪もゆるされるなら、罪など気にせず好きにふるまっていいのでしょうか。
 それに対してパウロは、「決してそんなことはない。私たちは洗礼を受けているではないか」と答えるのです(6章2~3節)。
 キリスト教の洗礼は、一度きり、イエス・キリストの名によって行われます。それは、ただ一度のイエス・キリストの死にあずかり、復活の命に生きることを意味します(4節)。洗礼はもともと全身を水に沈めて行われるものでした。それは、キリストといっしょに死と復活を体験することです。
 パウロは、洗礼によってあなたがたは罪に対して死に、「キリスト・イエスの中で神に生きる(11節直訳)」と記します。「神に生きる」とは、「神との関係で」「神の前で」「神のために」といった意味です。洗礼によって罪の自分は死に、神とつながり、神のために、神の前で生きるものとなったのです。
 小説『ああ無情』の主人公ジャン・バルジャンは、罪を許す大きな愛に触れて、罪の自分が死に、神に生きるものとなりました。パウロ自身も、キリストとの劇的な出会いによって洗礼を受け、以後は全く違う人生をたどることになりました。けれども、私たち皆が洗礼によってそんな劇的な変化をとげるわけではありません。それでもパウロは、「自分自身を神に献げなさい。罪はあなたがたを支配することはない。あなたがたは恵みのもとにいる(13~14節)」と記します。これは洗礼を受けた私たちへの「大丈夫、あなたはもう恵みのもとにいるのだ、きっと神に生きるものとなる」という促しであり、励ましです。洗礼によって与えられた新しい命、キリストの復活の命を大切に受け止めましょう。

 

2020年6月21日 (日)

北部日記 6月21日

 礼拝に集まれない間、日曜日の朝ごとに教会員にファックスやメールでその日の週報と説教原稿を送信し、また牧師家族だけの礼拝を録音・録画してインターネットで配信するようにしました。教会によっては礼拝をインターネットで同時中継しているところもありますが、そこまでの機材も技術もないので礼拝後の配信としました。
 録音・録画配信には、意外な反応も多くありました。メールで感想を送ってくださる方もあり、教会にはあまり足を運ばないご家族がいっしょに見たり、日曜日以外の日に礼拝のときをもったり、説教をくりかえし聞いて理解を深めたり、といったようすも知らされました。
 実は、今回の新型ウイルスの件が起こる前から、インターネットでの礼拝配信を試みては、という声がありました。高齢で外出が難しい方や、遠隔地の方も礼拝にあずかるためです。話はあっても、なかなか実際の試みにふみきれませんでしたが、しいられた形で不充分とはいえ、思いがけず実現にいたりました。いま、礼拝に再び集まることができるようにはなりましたが、なお継続して配信を試みていくことにします。
 プライバシーへの配慮などから、録画は一般公開せず、アドレスを知らせた人だけが視聴できるようにしています。でも、いつもの礼拝に知人を誘う程度に、他の人にアドレスを知らせるのはかまわないでしょう。
 いっぽう、教会員には、インターネットもファックスも使っていない人も何人もいます。それでもなんらかの形で礼拝につながる手段を、なお配慮していかなければなりません。

 

野外礼拝は中止

6月28日、野外礼拝を計画していましたが、会場の都合がつかず中止としました。

2020年6月20日 (土)

6月14日「どんなに多くの罪よりも」

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。(ローマの信徒への手紙5章15~17節)
 
 聖書で「罪」をあらわす語はいくつかありますが、今日の個所ではおもに「パラプトーマ」という語が用いられています。これは「過ち」と訳されることもあり、具体的なまちがった行為やふるまいをあらわします。
 パウロは、「多くの過ちがあっても義と認められる(15節 聖書協会共同訳)」と記します。これは、パウロ自身のことではないでしょうか。若い頃のパウロは、過ちを犯すことのないよう、律法を学び熱心に従いました。しかしその結果、教会を迫害し多くの人を苦しめたのです。突然キリストに出会ったとき、パウロは自分のあやまちを知り、罪をつきつけられました。けれどもそれとともに、キリストによって「無罪の判決がくだされる(15節)」と確信し、キリストに捕らえられ、世を支配するキリストの働きにあずかるものとされました。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受け・・・キリストを通して生き、支配するように(17節)」なったのです。
 過ちを犯さない人はいません。人生をかえりみるとき、かつての過ちに日夜苦しめられることがあります。
 若い頃の過ちから罪の思いを抱え続けた方がいました。亡くなる三日前、病床で洗礼を受け、「アーメン」と祈ったとき「このことばを、どんなに言いたかったか」と涙されました。人生を通して負い続けた、かつての過ちの苦悩から、キリストによって解放されたと信じます。
 今年度の教会の主題を、5章3~5節により「苦難から希望を」と掲げました。「苦難」には、自身の過ちがもたらす苦悩も含まれるでしょう。自分の罪がもたらした過ちに絶望し、死へと向かうような苦悩があります。しかし、神の愛は、その苦しみに、絶望ではなく希望を生じさせ、命に導く奇跡をもたらすのです。自分の過ちにではなく、義としてくださるキリストに目をむけましょう。

2020年6月14日 (日)

北部日記 6月14日

 先週の日曜日には、1か月半ぶりに会衆一同集まっての礼拝を献げることができました。久しぶりに顔を合わせて、あちこちで嬉しそうに声をかけ(感染予防からは好ましいことではないかもしれませんが)、抱きあわんばかりに挨拶をかわしあう姿がありました。この日は私たちの教会の創立記念日礼拝にもあたり、教会があることの意味や、教会とは何かを覚えるときとなりました。
 礼拝後には延期されてきた教会総会を行いました。口頭での報告はほとんど省略、簡潔な質疑や意見交換の後、議案はみな可決され、1時間ほどで終えることができました。新たな役員が選ばれ、今日の礼拝で任職式が行われます。任期を終えた4名の前役員は、通常よりも1か月以上長く役員の任を負ってくださいました。ご労苦を主がねぎらってくださるよう祈ります。
 総会では20年度活動計画や予算も可決されましたが、この状況では計画通りにことが進むとは限らないことも了解のうえです。役員会を中心に、その都度の判断をしていかなければなりません。教会や、つながるひとりひとりのことを皆で考え気遣っていくことが求められます。難しいけれどもだいじな訓練のときともなるでしょう。
 先週から、太平子どもの家の活動も慎重に再開しています。社会の活動も徐々に回復する一方、感染の波のぶりかえしも警戒されています。このときにあって、教会は、世の苦悩を共に味わいながらも、なお希望を指し示す存在でありたいと思うのです。

2020年6月13日 (土)

6月7日「思い出す人々」 教会創立記念日礼拝

 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。(ローマの信徒への手紙16章1~7節)
 
 16章には多くの人々の名前が挙げられています。これは当時の教会のようすをうかがわせる貴重な資料でもあります。
 1~2節で紹介されているフェベは、教会の重要な役割を担った女性で、この手紙を持参した人物です。3節の「プリスカとアキラ」は、パウロと協力して大きな働きを担った夫妻です。妻プリスカの名前が先に記されているのは、それだけ彼女の働きが顕著だったのでしょう。最古参の信徒エパイネト(5節)や教会のために苦労したマリア(6節)の名が挙げられます。7節の「ユニアス」については、近年、これは「ユニア」と読むべきで、当時の教会で「使徒」に数えられた女性と考えられるようになっています。
 8節以下も含め、ここから明らかになってくるのは、当時の教会での女性たちの活躍ぶりです。内村鑑三は、当時の男尊女卑の社会にあって、これは「福音の革命的性質」のあらわれだと指摘しています。
 近年の研究では、ここに挙げられた人々の多くは、当時の社会の中では低い身分の人々だったと考えられています。しかし、社会における身分・地位・性別・財産・職業とは関係なく教会の交わりが形作られていました。それは地理的制約をも超え、遠くの教会とも親しい交わりを結んでいました。
 この手紙が教会に届くと皆の前で朗読されたことでしょう。ひとりひとりの名前が読まれると、その人がかかわった教会のできごともまた思い起こされたことでしょう。一人ひとりの信仰の歩みに教会の歩みが重なっているのです。
 今日は教会創立記念日礼拝です。これまで教会の歩みに連なり、信仰の歩みを重ねたひとりひとりを覚えましょう。今日はまた教会総会を行います。教会が、この時代にあって「福音の革命的性質」を表す群れとして歩むようこころざしましょう。

2020年6月 7日 (日)

北部日記 6月7日

 今日、久しぶりに一同で集まっての礼拝を献げます。どんな思いで教会に集まってきたことしょう。今日はまた、教会創立記念日礼拝にあたります。私たちの教会の歩みをふりかえり、私たちの教会が、何をこころざし、どんなふうに歩んできたか、かえりみる機会でもあります。
 7年前の教会一日修養会で、「これからの北部教会」をテーマに語りあい、分団ごとに祈りの一句を考えて「北部教会の祈り」を作りました。
「神さま
札幌北部教会をとおして多くの人(被災地の方たちや地区・教区の方たち)と交わりができ、そのために年よりも若者も行動する力をおあたえください。
今まで以上に、小さい子どもからお年寄りまで、共に手を携えて神さまを讃美する教会になれますように。
幼な子にキリストの愛を、高齢者には神の平安を、共に歩む私たちに喜びを与えてください。
苦労話を聞きながらゆったりと分ちあうことができますように。
家族の内に信仰がつながっていきますように。
病める魂にそっと寄り添う教会でありますように
 私たちを互いの弱さを分ちあう神さまの家族とさせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン」
きょうはまた礼拝後、教会総会が行われます。この祈りをまた心に覚え、私たちの歩みを共に進めていきましょう。

2020年6月 6日 (土)

5月31日「アッバ、父よ」 ペンテコステ礼拝

それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマの信徒への手紙8章12~17節) 
 今日は聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。
 聖霊の働きとして、パウロは「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶ」と記します。「アッバ」とは、主イエスや弟子たちがふだん話していたアラム語で、幼児が父親を呼ぶときの「とうちゃん」という語です。主イエスは神にそんなふうに呼びかけ、弟子たちにもそうするように教えました。
 新約聖書はギリシア語で書かれました。聖書にギリシア語で「父よ」と記されている個所のいくつかは、もともとはアラム語の「アッバ」であったと考えられています。のちの教会は、主イエスから教えられたように、神に「アッバ」とよびかけて祈りました。パウロもそれを踏まえて記しているのです。
 神の子キリストは、神を親しく「アッバ」と呼び、私たちにもそうするよう促しました。被造物に過ぎない私たちも、ふしぎにも神の子キリストと同じように「神の子ども」とされ、ほんとうの神の子のように生きるのです。そういうふしぎをもたらすのが神の力、聖霊なのです。
パウロは、この8章では、これまでの生き方を「肉」で表し、神の子としての生き方を「霊」と言い表しています。そして17節では、神の子とされる意味として、神の栄光を受けるだけでなく、「キリストと共に苦しむ」ことをも与えられると言っています。
 じつは、聖書で、主イエスご自身が「アッバ」と呼んだことが直接記されているのはマルコ14章36節のゲツセマネの場面だけです。聖書は、ここだけは主イエスの生のことばを訳さずに記しています。主イエスは、受難を前にしてもっとも悩み苦しんだ時、神に「アッバ、とうちゃん!」と呼びかけ祈ったのです。神の子にとって、神とはそういう方なのです。私たちも、悩み苦しむときにこそ、聖霊によってキリストと共に「アッバ、とうちゃん!」と呼ぶのです。

2020年6月 1日 (月)

<おしらせ> 太平子どもの家の活動再開について

太平子どもの家は、新型コロナウイルス感染防止のため、しばらく活動を休止していましたが、6月第2週から再開いたします。

「子育てほっと広場」(火曜日)
 6月9日(火)から再開します。ただし、当面は以下のように縮小して行います。
 * 活動時間は10時30分から12時までとします。昼食の時間はとりません。
 * スタッフは、責任者と園長のみで対応します。一般ボランティアの参加はありません。
 * できるだけ屋外での活動とします。天候によって室内で活動する場合、換気のため窓を開放するなどの対応をします。 

「こあら会」(金曜日)
 6月12日(金)から今年度の活動を開始します。参加者を募集中です。お問い合わせください。

 

 

 

 

 

 

 

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