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2020年6月20日 (土)

6月14日「どんなに多くの罪よりも」

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。(ローマの信徒への手紙5章15~17節)
 
 聖書で「罪」をあらわす語はいくつかありますが、今日の個所ではおもに「パラプトーマ」という語が用いられています。これは「過ち」と訳されることもあり、具体的なまちがった行為やふるまいをあらわします。
 パウロは、「多くの過ちがあっても義と認められる(15節 聖書協会共同訳)」と記します。これは、パウロ自身のことではないでしょうか。若い頃のパウロは、過ちを犯すことのないよう、律法を学び熱心に従いました。しかしその結果、教会を迫害し多くの人を苦しめたのです。突然キリストに出会ったとき、パウロは自分のあやまちを知り、罪をつきつけられました。けれどもそれとともに、キリストによって「無罪の判決がくだされる(15節)」と確信し、キリストに捕らえられ、世を支配するキリストの働きにあずかるものとされました。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受け・・・キリストを通して生き、支配するように(17節)」なったのです。
 過ちを犯さない人はいません。人生をかえりみるとき、かつての過ちに日夜苦しめられることがあります。
 若い頃の過ちから罪の思いを抱え続けた方がいました。亡くなる三日前、病床で洗礼を受け、「アーメン」と祈ったとき「このことばを、どんなに言いたかったか」と涙されました。人生を通して負い続けた、かつての過ちの苦悩から、キリストによって解放されたと信じます。
 今年度の教会の主題を、5章3~5節により「苦難から希望を」と掲げました。「苦難」には、自身の過ちがもたらす苦悩も含まれるでしょう。自分の罪がもたらした過ちに絶望し、死へと向かうような苦悩があります。しかし、神の愛は、その苦しみに、絶望ではなく希望を生じさせ、命に導く奇跡をもたらすのです。自分の過ちにではなく、義としてくださるキリストに目をむけましょう。

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