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2020年7月

2020年7月26日 (日)

北部日記 7月26日

  今年度の太平子どもの家の活動は、ようやく6月から始まりました。昨年度に来ていたこどもたちの多くが幼稚園・保育園に行くようになり、こあら会に登録したのは4組。ほっと広場も、こどもの参加は2人という日も。最近は仕事に出るお母さんが多くなり、平日の昼間、親子で参加する前提の活動には、人が集まりづらくなっているようです。
 ところが、夏休み前の最後のほっと広場となった先週には、9人のこどもたちが集まりました。こどもを遊ばせるために太平駅近くの児童公園に自然に集まっていたお母さんたちに口コミが広がり、次々に太平子どもの家に顔を出し始めたのです。
  「近くなのに知らなかった」というお母さんに、別のひとりが、「ここは口コミだけで集めているから」と説明していました。いや、「口コミだけ」ということはないのですが・・・。アプローチ不足を痛感しました。
 今年はCSの行事ものきなみ断念しています。キャンプも中止したかわりに、先週、百合が原公園でレクリエーションを行いました。当日はこどももおとなもあわせてなんと40名以上が参加。みんなやはり楽しい集まりを求めていたんですね。しっぽとりやパン食い競争など簡単なゲームを楽しみ、お弁当の後は広い芝生広場でてんでに遊びました。
 CSの行事に集まるこどもたちも、太平子どもの家にかつて通っていたこどもたちや、そのきょうだい、そのまた友だちなどが中心です。地域のこどもたちやその家庭に、教会が提供できるものはまだゆたかにあると、可能性をあらためて感じています。

2020年7月25日 (土)

7月19日「信じない者へ」

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙10章13~15節) 
 神の民を自負するユダヤ人が、なぜ神の御子キリストを信じないのでしょう。パウロはこの問題をとりあげて9~11章で論じています。そこにはパウロ自身の体験も重なっていると考えられます。
 10章冒頭で、ユダヤ人について「熱心に神に仕えている・・・この熱心さは正しい認識に基づくものではありません。神の義を知らず、自分の義を求めようとして神の義に従わなかった(10:2~3)」と語りますが、これは以前のパウロの姿そのものです。罪人を見捨てずに愛し、裁きではなく救いをもたらす神の正義=神の義を知らず、裁かれることがないようにと自分が正しくあること=自分自身の義を追い求めて律法に固執していたパウロでした。
 しかし、神が求めるのは、罪人をゆるす神を信頼し、神を慕ってよびかけることでした。救いは呼び求めることから、呼び求めるのは信じたから、信じるのは聞いたから、聞いたのは宣べ伝えたから、宣べ伝えたのは遣わされたからでした(13~15節)。そして遣わしたのはほかならぬ神です。神ご自身が、救いをもたらすために働きかけてくださったのです。しかしユダヤ人は、聞いたにもかかわらず、信じなかったのです(17~18節)。
 そのため、かえって異邦人が神を知ることとなりました(19~20節)。しかし、神はなお、信じない者、不従順で反抗する民に、救いの御手を差し伸べてくださるのです(21節)。信じない者へ差し伸べられる神の御手によってパウロは信じる者とされました。わたしたちもまた、信じない者へ差し伸べられた御手の働きを知っているのではないでしょうか。
 そしてパウロは、その御手の働きのため、信じない者も聞くことになるために自分が遣わされたことを自覚しました。わたしたちも、その御手の働きに用いられるときがあるでしょう。それは幸いなつとめではないでしょうか。

2020年7月19日 (日)

北部日記 7月19日

 先日、日本キリスト教団の「カルト問題連絡会」から諸教会にむけて連絡がありました。このところ牧師・信徒のメールやSNSに、「インターネット聖書セミナー」や「ZOOM聖書研究会」の案内が送られているが、事件を起こして問題になっている破壊的カルトの活動として警戒してほしい、というものです。(掲示板をご覧ください。)
 新型ウイルスの影響で、諸教会では集会が縮小・休止され、かわりにインターネットを通じた礼拝・聖書研究会などが一挙に普及しました。北部教会でも礼拝の動画配を行うようになりました。ウイルスの危機が去っても、こうした状況が後戻りすることはないでしょう。それとともに、上記のような新しいできごとがさまざまに起きてくることでしょう。
 もちろん、マイナスの事態ばかりではありません。道北地区では毎年7月に交換講壇を行っていますが、今年は移動を避け、かわりにインターネットを通じて全教会が参加する合同礼拝を行い、好評だったとのこと。8月にも、例年行っている美馬牛福音伝道所での礼拝をインターネットで配信するそうです。これから、こうした新しい交わりの形が展開されていくことでしょう。
 教会以外でも、インターネットを通じた講演会や討論会が試みられ始めています。遠くから講師を招いたり、集会に足を運んだりしなくても、有意義な活動ができるようになるかもしれません。
 新型ウイルスは、いやおうなしに新しい時代を引き寄せてしまったようです。

2020年7月18日 (土)

7月12日「肉親を思う」

わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。(ローマの信徒への手紙9章1~5節)

 ここにいる多くの方々が、だいじな家族・肉親にキリスト教信仰を理解してほしい、できれば同じ道を歩む者となってほしい、と願っていることでしょう。教会の歴史の始めの多くの信仰者も同じ思いを抱いていたはずです。
 その時代のひとり、パウロには、妻子はいませんでしたが姉妹や甥などの肉親がいたようです(使徒言行録23:16)。パウロが「肉による同胞のためなら」(3節)と記したとき、彼らの顔を思いうかべていたのかもしれません。
 内村鑑三は『ロマ書の研究』の中で、パウロが口述筆記でこのように述べていくようすやその心の動きを、見てきたように生き生きと描き出しています。内村自身、信仰に入ったあと、肉親に信仰を理解してもらいたいと切に願い、なんども拒絶されながら父に働きかけたことがありました。そういう肉親への思いを、思わずパウロに重ねたのでしょう。わたしたちもまた、同じ思いを共にするのです。
 しかし、パウロは「あなたは夫(妻)を救えるかどうか、どうしてわかるのか(コリント一 7:16)とも述べています。私たちの思いが目の前でかなえられるとは限らないこともわきまえなければなりません。9~11章でパウロは、同胞であるユダヤ人がキリストを受け入れず、そのために福音が異邦人に伝えられるに至ったこと、しかしそれを見て最後にユダヤ人も神に立ち返るという神の計画を示しています。その計画の完成を自分は見ることができないとしても、肉親への深い思いを神にゆだねるのです。
 内村鑑三は、また「同胞」を日本人のこととして語っています。日本の社会から迫害を受けながらも日本人の救いを心から願い、「日本人の救いのために働くは、また全世界の救いのために働くこと」と促しました。肉親を思い、そのために世界を思って働く信仰を心にとめましょう。

2020年7月12日 (日)

北部日記 7月12日

 3月以来、新型ウイルスの感染を警戒して礼拝プログラムを短縮してきました。いつになったら礼拝をもとのように戻すことができるか、先週の役員会でいろいろ協議しました。
 この先、新型コロナウイルス感染の可能性が完全にゼロになることはないでしょう。やがて今のインフルエンザやノロウイルスのように予防や治療の手段が定まるでしょうが、それもまだしばらく先と考えなければなりません。いっぽうで、礼拝をはじめ教会の日常活動を回復したいという願いはつのっています。ある程度のリスクの中で、それでも教会のたいせつなわざをどのように取り戻していくか、状況を見きわめながら試みていくしかないだろうと話し合いました。
 とりあえず、今週から礼拝では「リタニ―」をまた用いることとします。いずれ「こどものお話」も再開できるよう願っています。
 また、来月の平和聖日では聖餐式を行いたいと考えています。これまでのようにパンを手で裂くことはせず、あらかじめカットしたパンを配餐者が器具を用いて渡し、また杯も間隔をあけて取りやすく工夫します。それでも不安を覚える方は、パンと杯は取らずに祈りつつ聖餐の場を共にするようにしてください。
 とはいえ、これから社会状況がどう変化していくか確実な予想ができない中で、教会の対応も判断していかなくてはなりません。ちょうど、8月第5週には教会懇談会が予定されています。この日、短時間でも、これからの対応など相談する機会をもつ予定です。

2020年7月11日 (土)

7月5日「神が味方」

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマの信徒への手紙8章31~34節)
 
 厳しい状況におかれたとき、味方となってくれる人がいるかどうかで希望と絶望に大きく分かれます。パウロは、「もし神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と記します。神が味方ならこんなに心強いことはないでしょう。では、「敵対」するのは誰を想定しているのでしょうか。
 33~34節には、わたしたちを「訴え」「罪に定める」者が想定されています。これは、わたしたちの罪を裁く神ご自身のことにほかなりません。ところが、その絶対的な裁き主が、わたしたちを訴え、裁くことをせず、無罪とすることを決め、そのためにキリストを遣わされたというのです。
 「神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とは、本来ならわたしたちに相対してむかいあうはずの神が、なぜかわたしたちの側についてくださっている、という驚きと感動のことばです。わたしたちに敵対するはずの神なのに、というより、神に敵対していたわたしたちなのに、神はそのわたしたちに味方してくださったのです。
 そのために神はキリストを遣わし、その命を与えてくださいました。ここにそれが神の愛、キリストにおいてしめされた愛なのです(38~39節)
 背いたものを、それでも責め裁かずに愛し、味方になってくれる神は、主イエスが「放蕩息子のたとえ」で語られた父親の姿そのものです。ただし、このたとえでは、キリストのことは明確に示されていません。神が、背いたものをゆるすために、どれほどの痛みを負ったかを思わねばなりません。
 神は、わたしたちに大きな愛を示し、御子キリストという大きな犠牲をはらって、敵対するのではなく味方となり、わたしたちの側に、共に立ってくださいました。その愛を受け入れ、わたしたちも、神の味方として、神の側に立つと、心さだめましょう。

2020年7月 9日 (木)

おしらせ 太平子どもの家活動予定

太平子どもの家の「子育てほっと広場」(火曜日)は、新型コロナウイルスの感染予防のため、以下のような内容で活動しています。

 * 活動時間は10時30分から12時までとします。昼食の時間はとりません。
 * スタッフは、責任者と園長のみで対応します。一般ボランティアの参加はありません。
 * できるだけ屋外での活動とします。天候によって室内で活動する場合、換気のため窓を開放するなどの対応をします。
 * 手洗いなどをこまめにお願いしています。消毒液も用意していますが、ご自宅で使っているものを持参してもかまいません。
 * お子さんやご家族に風邪の症状がある場合は参加をご遠慮ください。
 * 当日朝、親子とも体温をはかってきてください。平熱より0.8℃以上上回る場合はご遠慮ください。 

7月は、21日(火)まで行い、例年のように夏休みに入ります。
8月は、25日(火)から再開を予定していますが、状況によって変更する可能性もあります。そのつどおしらせいたします。

金曜日の「こあら会」も7月17日(金)まで行って夏休みにはいります。8月28日から再開予定です。「こあら会」は登録制ですが、参加者を随時募集中です。お問い合わせください。

 

 

 

2020年7月 5日 (日)

北部日記 7月5日

 先月開催された教会総会では、短時間で終えるために諸報告は資料を示すだけとなりましたが、本来なら時間をとって聞くべきだいじな報告がありました。会堂建築会計のまとめです(総会資料37ページ)。
 札幌北部教会は、2008年度に現会堂を建築しました。それまでこつこつ積み立ててきた資金に、教会員のせいいっぱいの献金と教会外部からの献金を加え、それでも不足する資金を教会債と教区からの長期借入金でまかないました。1800万円を超えるこの教会債・借入金は、会堂完成後、10年かけて返済する計画でした。返済の資金もまたほとんどが教会員からの献金です。そして予定の10年が過ぎた2019年度、返済をほぼ終えるに至ったのでした。
 新会堂の建築経費は、当初7100万円と計画していましたが、計画の変更や追加工事なども含め約7600万円の支出となりました。教会外からの献金は、毎週の週報に掲載されているように、そのうちの1割弱にとどまります。残りの資金を長い年月をかけて教会員が献げてきました。この献金は、祈りの積み重ねでもありますが、そこには、すでに天に召された教会員たちの祈りも含まれています。感謝をもって、いま一度、報告を心にうけとめたいと思います。
 なお、現在、会堂会計は、教会の墓地会計から100万円を借り入れたままになっています。会堂の献堂から10年が過ぎ、メンテナンスの費用もかさんできます。また駐車場の敷地の半分は地主から無償で借りていますが、将来の購入を目標としています。なお祈りを重ねましょう。

2020年7月 4日 (土)

6月8日「新しい自分」

ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマの信徒への手紙7章4~6節)
 
 「コロナ後」の社会は、これまでとは異なるものとなっていくでしょう。政府は「新しい生活様式 ニュー・ライフ・スタイル」と称して「人との間隔をあける」「マスク・手洗いをする」などと勧めています。しかし「ライフスタイル」をいうなら、この社会の価値観や、これまでのひとりひとりの生き方といった、もっと深く本質的な点から変えていくべきでしょう。
 なにか大きなできごとに出会ったとしても、それをどれほどの深さでうけとめるかで、そのできごとの意味が定まってきます。表面的な浅いレベルで終わってしまうのか、これまでの生き方・ライフスタイルや、心の内までが変わるのかで、そのできごとが人生のだいじな出会いになるのか、ひとつのエピソードに終わるかが決まってくるのです。
 「卒業信者」という言い方があります。洗礼を受けたのに教会を離れてしまった人の中には、教会をも「よい思い出」のひとつとしてキリスト教を「卒業」してしまう人がいます。洗礼のできごとを深く受けとめることなく、浅いレベルで終わってしまったようです。
 パウロは、洗礼の意味を、キリストの死と復活にあずかることだと記します。それは人生が、その前後でがらっと変わってしまう、決定的なできごとだということです。パウロにとって洗礼は、それほどの深い大きなできごとでした。
 「罪へ誘う欲情が律法によって働く」(5節)というのは、一般論というよりむしろパウロ自身の体験だったのでしょう。キリストと出会い、洗礼を受けることによって、パウロは律法からの解放を味わい、キリストに生きる新しい自分となったのでした。
 「『わかる』とは『かわる』ことだ」と言います。新しい自分にかわるほどに、キリストとそのできごとが「わかる」ことを望みましょう。

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