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2020年7月25日 (土)

7月19日「信じない者へ」

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙10章13~15節) 
 神の民を自負するユダヤ人が、なぜ神の御子キリストを信じないのでしょう。パウロはこの問題をとりあげて9~11章で論じています。そこにはパウロ自身の体験も重なっていると考えられます。
 10章冒頭で、ユダヤ人について「熱心に神に仕えている・・・この熱心さは正しい認識に基づくものではありません。神の義を知らず、自分の義を求めようとして神の義に従わなかった(10:2~3)」と語りますが、これは以前のパウロの姿そのものです。罪人を見捨てずに愛し、裁きではなく救いをもたらす神の正義=神の義を知らず、裁かれることがないようにと自分が正しくあること=自分自身の義を追い求めて律法に固執していたパウロでした。
 しかし、神が求めるのは、罪人をゆるす神を信頼し、神を慕ってよびかけることでした。救いは呼び求めることから、呼び求めるのは信じたから、信じるのは聞いたから、聞いたのは宣べ伝えたから、宣べ伝えたのは遣わされたからでした(13~15節)。そして遣わしたのはほかならぬ神です。神ご自身が、救いをもたらすために働きかけてくださったのです。しかしユダヤ人は、聞いたにもかかわらず、信じなかったのです(17~18節)。
 そのため、かえって異邦人が神を知ることとなりました(19~20節)。しかし、神はなお、信じない者、不従順で反抗する民に、救いの御手を差し伸べてくださるのです(21節)。信じない者へ差し伸べられる神の御手によってパウロは信じる者とされました。わたしたちもまた、信じない者へ差し伸べられた御手の働きを知っているのではないでしょうか。
 そしてパウロは、その御手の働きのため、信じない者も聞くことになるために自分が遣わされたことを自覚しました。わたしたちも、その御手の働きに用いられるときがあるでしょう。それは幸いなつとめではないでしょうか。

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